(3)芸予地震(1905年6月2日、M7 1/4)
芸予地震の震源域は、瀬戸内海西部の安芸灘付近と推定されている。震源の深さは50km前後であり、津波も発生しなかったことから、この地震はフィリピン海プレートの沈み込みに関係したやや深い地震と考えられる{20}。地震の揺れは広島、愛媛両県の沿岸、特に広島市、呉市、江田島町、宇品(広島市)、松山市、三津浜(松山市)、伊予市などで強く、その震度は5〜6相当の揺れとなった(図8−15)。広島県で死者11名、家屋全壊56、愛媛県で家屋全壊8などの被害{21}が生じた(図8−16)。広島県では、広島監獄での被害が目立った。ここは埋立地にあり、第14工場が倒壊して死者2名、負傷者22名を出した{22}。愛媛県では三津浜で家屋の全壊などの被害が生じたほか、伊予でも被害が生じた。さらに、山口県でも家屋などに軽微な被害があった。なお、この地震での最も大きな被害は呉であったものと推定されるが、当時呉は軍事施設があったために、その被害の詳細は明らかにされていない{23}。 この地震の約5時間後、大きな余震(M6.0)がやや南寄りで発生し多少の被害が生じた。またこの年12月8日12時08分(M6.1)と、同日13時25分(M6.2)にも大きな規模の余震があった。このうち後者の地震が最大余震である。
芸予地震の震源域近くでは、1903年以来芸予地震の発生までに、地震が多く発生しており{24}、1903年に9回、1904年に3回、1905年には6月2日以前に3回発生している{25}。1903年3月21日の地震はM6.2であった。