(1)南海トラフ沿いで発生する巨大地震(安政南海地震(1854年12月24日(嘉永7年(安政元年)11月5日)、M8.4)及び南海地震、1946年12月21日、M8.0))

安政南海地震は、四国の沖から紀伊半島沖にかけての沿岸部を含んだ南海トラフ沿いの地域を震源域として発生したプレート間地震である。この地震では、高知県や徳島県の沿岸地域で震度6相当、紀伊半島西部沿岸地域や大阪周辺でも震度5〜6相当の揺れであったと推定される。さらに、遠く出雲地方でも震度5〜6相当の揺れがあったと推定される(図8−6)。被害は中部地方から九州地方にかけての広い範囲に及んだが、前日の安政東海地震(6−2(1)参照)による被害と区別できないものも多い。この地震に伴って津波が発生し、各地に大きな被害が生じた。津波の高さは、四国の太平洋沿岸や潮岬付近以西の紀伊半島沿岸などで高く4〜7m、場所により11m程度に達し(図8−7)、大きな被害が生じた。また、大阪では、津波が木津川、安治川を遡行して被害が生じた。図8−8には月別余震回数を示した。

 1946年の南海地震は、安政南海地震と同じく四国の沖から紀伊半島沖にかけての沿岸部を含んだ南海トラフ沿いの地域を震源域として発生したプレート間地震であり、潮岬、尾鷲市、徳島市、高知市、津市、彦根市などで震度5が観測された(図7−9参照)。被害は、中部地方から九州地方にまで及び、全体で死者・行方不明者1,443名、負傷者3,842名、住家全壊約9,000など{13}であり、その他多数の流失や焼失した家屋があった。特に被害の大きかった高知県中村町では、死者273名、家屋全壊2,000以上などの被害が生じた{14}図8−9)。地震動による被害は、瀬戸内海沿岸、さらには出雲地方にまで及んでいる。津波による被害は地震によるものより大きかった(図8−10)。津波は房総半島から九州に至る沿岸を襲い、特に徳島、高知沿岸の津波の高さは4〜6mに達した(図8−11)。

 1946年の南海地震に伴うM5以上の余震は翌年の4月までに40個あり、そのうちM6以上の余震が5回である。その中での最大余震は、12月21日と、翌年2月22日のM6.3であった(図7−12参照)。一連の活動での最大余震は、1948年4月18日のM7.0である。

 1946年の南海地震に伴って、室戸岬、潮岬、足摺岬の先端では隆起する一方で、高知市付近では最大1m程度の沈降を示す地殻変動がみられた{15}。このため、高知市付近などの低地に海水が流入するなどの被害が生じた。さらに、瀬戸内海沿岸の地域では、地震後数年にわたって地盤が最大約30cm低下する変動{16}があり、海水の流入による被害が生じた。