1944年の東南海地震では、紀伊半島東部を中心に強い地震動が広範囲で生じ、三重県の津市などで震度6が観測された(図7−7)。また、伊豆半島から紀伊半島にかけての太平洋沿岸を津波が襲い、その高さは熊野灘沿岸で6〜9mとなり、尾鷲市で最大9mとなった(図7−8)。津波による被害は、三重県・和歌山県に集中した。地震動による被害を含めて、近畿地方では三重県で特に被害が大きく、周辺の滋賀・奈良・和歌山・大阪・兵庫の各県にも被害が生じた。中部地方から四国地方にかけての全体の被害は、死者1,223名、重傷者2,864名、住家全壊17,599などと言われているが、被害数は文献により著しく異なる{13}。また、震源域から離れていても、例えば名古屋市では、沖積地、埋め立て地など地盤がやわらかい地域に大きな被害が生じた。余震活動を見ると、M6以上の余震は12月12日までの5日間に4回観測されており、最大の余震は12日に発生したM6.4であった(図6−14)。12日の余震より後には、M6以上の余震は観測されていない。地殻変動観測によると、東南海地震に伴って紀伊半島東部の海岸は30〜40cm沈降した{14}。また、津波は太平洋を横断し、ハワイやカリフォルニアでも観測された。
1946年の南海地震では、紀伊半島南部を中心に強い地震動が広範囲で生じた(図7−9)。また、津波は静岡県から九州にかけての太平洋沿岸を襲い、三重県や和歌山県の沿岸では津波の高さは4〜6mに達した(図7−10)。近畿地方では和歌山県で被害が大きく、周辺各県でも被害が生じた(図7−11)。中部地方から九州地方にかけての全体の被害は、死者・行方不明者1,443名、負傷者3,842名、家屋全壊11,591などと言われているが、被害数は文献により異なる{15}。余震活動を見ると、M6以上の余震は翌年2月までの約二ヶ月間に5回観測された。図7−12には、本震発生から一ヶ月あまりの余震回数の推移を示した。最大の余震は、本震の約1年4ヶ月後の1948年4月18日に発生したM7.0であった。地殻変動観測によると、南海地震に伴って、紀伊半島や四国の室戸半島では地面が隆起した。1944年の東南海地震と1946年の南海地震とを合わせた隆起の量は潮岬付近では約70cm{16}であった。
昭和年間に発生した上述の二つの地震は、南海トラフ沿いの巨大地震としては最も最近発生したものであるが、戦時中あるいは戦後の混乱の最中に発生したために、観測データなどの質が低く、量も乏しい。しかし、その中の水準測量などのデータは、地震前後の土地の変動の様子を詳しく捉えており、地震研究上の貴重な資料になっている。また、過去の地震に比べてその規模はやや小さいものであったと考えられているので、この地域の地震を評価する上で、昭和の地震よりも規模が大きい安政の地震などの例も知っておく必要がある。(安政東海地震については 6−2(1)参照、安政南海地震については 8−2(1)参照)