新潟県の地形をみると、北から朝日山地、越後山脈、三国山脈などがほぼ南北に連なり、海岸に沿って越後平野が広がっている。県内の主な活断層としては、北から櫛形山脈断層帯、月岡断層帯、長岡平野西縁断層帯、十日町断層帯、信濃川断層帯などが知られている(図6−44)。櫛形山脈断層帯及び月岡断層帯は活動度B級の活断層であり、越後平野とその東側の山地との境界付近を北北東−南南西方向に延びている。越後平野の南側には比較的新しい時代の地層からなる丘陵地があり、その尾根や谷は北北東−南南西方向に延びている。このような地形は、東西方向の圧縮で地層が徐々に押し曲げられて形成されると考えられてきた。しかし、最近では東西方向の圧縮に起因する地下での活断層の活動により、その上の比較的軟らかい地層が押し曲げられ、先のような地形が形成されると考えられている。現在もこのような地層の曲げは続いている(これを活褶曲という)。長岡平野西縁断層帯、十日町断層帯、信濃川断層帯はこのような活褶曲のもととなる活断層が地表に出たものと考えられている。これらの活動度は比較的高くA〜B級とされている。なお、信濃川断層帯の長野県の部分では、1847年に善光寺地震(M7.4)が発生している(6−3(6)参照)。佐渡島にも、北東−南西方向に活動度B級の活断層がいくつか知られている。
新潟県の歴史の資料に現れる最も古い地震は、863年の地震(M不明)である。富山県、新潟県で被害があり、山崩れや民家の倒壊などで多数の圧死者が生じたという。津波被害があったどうかは不明である。震源の位置が不明なため、陸域の浅い地震か日本海東縁部の地震かは分からない。
歴史の資料から陸域の浅い被害地震が比較的多く知られている。1502年、1666年、1751年に新潟県西部においてM6〜7の地震があり、現在の上越市を中心に大きな被害が生じた。また、1670年には、新潟県中部、南蒲原郡付近で地震(M6 3/4)が発生し、死者、家屋倒壊などの被害が生じた。なお、この地震については、より西方の越後平野(1828年の地震のすぐ北側)で発生したとする調査報告もある{45}。1828年のM6.9の地震(三条地震とも呼ばれる)では、越後平野南部で被害が著しく、特に三条では約439軒の家が潰れ、死者約205名などの被害が生じた{46}。県内各地でも大きな被害を出した。地割れから水や青砂を噴出したり、建物が土中に3〜4尺めり込んだという記録もあり、この地震に伴って、かなり大規模な液状化現象が起こったと考えられる{47}。
明治以降も、陸域の浅い被害地震がいくつか発生している。特に、明治以降における観測体制の整備、社会的状況の変化等により、M5〜6程度の地震による局所的な被害が新潟県中〜西部で数多く報告されている。例えば、1887年の古志郡の地震(M5.7)、1927年の三島郡関原の地震(M5.2)、1933年の小千谷の地震(M6.1)、1961年の長岡付近の地震(M5.2)などである。1961年の長岡付近の地震では、約3km程度の非常に狭い範囲で震度6程度の揺れを感じた。最近では、1995年の新潟県北部の地震(M5.5)が新潟県笹神村付近で発生し、負傷者や家屋の全半壊などの被害が生じた。また、1992年の津南の地震は、M4.5にもかかわらず深さが非常に浅かった(約2km)ため、ごく局所的に被害が生じた。これらの地震のなかには、活褶曲に関係して発生したものもあるとされている。
このほか、県内では、隣接する県で発生する浅い地震によっても被害を受ける場合がある。例えば、1847年の善光寺地震(M7.4)では県西部、特に上越市付近を中心に家屋倒壊などの被害が生じた。
歴史の資料によると、新潟県付近の日本海東縁部で発生した地震としては、1762年の地震(M7)や1802年の地震(M6.5〜7)というM7程度のものが知られている。いずれも、佐渡島付近の海域で発生した。1762年の地震では佐渡島において地震動による被害のほかに津波被害も生じた。明治以降では、1964年の新潟地震(M7.5)が日本海東縁部の被害地震である(詳細は6−2(5)参照)。1833年の山形県沖の地震(M7 1/2)や1983年の日本海中部地震などでは、新潟県の沿岸地域に津波被害が出ており、新潟県沖合以外の日本海東縁部で規模の大きな地震が発生した場合でも津波被害を受けることがある。なお、1828年の地震などが知られている越後平野南部と1964年の新潟地震の震源域との間には、これまでに規模の大きな地震が知られておらず、ここを地震の空白域とする指摘もある{48}。
なお、新潟県とその周辺における小さな地震まで含めた最近の浅い地震活動を図6−45に示す。
表6−1 新潟県に被害を及ぼした主な地震