(1)関東地震(1923年9月1日、M7.9)
関東地震(関東大地震と呼ぶこともある)は、相模湾、神奈川県全域、房総半島の南部を含む相模トラフ沿いの広い範囲を震源域として発生したプレート間地震である。なお、真鶴岬や伊豆半島東岸沖の初島がこの地震で隆起したことから、震源域はこれらの地域まで及ぶとの考え{13}もある。関東地方の南部を中心に強い地震動が広範囲に生じ、関東地方の南部の広い範囲で震度6が観測された(図5−10)。当時の震度階級は6までしかなかったが、家屋の倒壊状況などから相模湾沿岸地域や房総半島南端では、現在の震度7相当の揺れであったと推定される。各地で家屋の倒壊、山崩れ、崖崩れなどが生じたほか、沿岸部に津波が襲った。津波の高さは静岡県の熱海で12m、房総半島の相浜で9.3mとなり、震源域に近い熱海では地震発生後約5分で津波が到達した。{14}さらに東北地方や九州地方にかけての太平洋沿岸域でも津波が観測された。また、地震直後に発生した火災が被害を大きくし、当時の東京府、神奈川県を中心として、全体として、死者、行方不明者合わせて142,000余名などの被害{15}が生じた。この地震による災害は「関東大震災」と呼ばれる(表5−1、図5−11、図5−12、図5−13)。 関東地震に伴って、小田原付近から房総半島先端にかけての地域で、地面が最大約2m隆起し、南東方向へ2〜3m移動したことが観測された。また、それより内陸の東京都南西部から神奈川県北部にかけては、地面が数十cm沈降した(図5−14)。
本震直後から翌年にかけて、関東南部の広い地域で多くの余震が発生した(図5−15)。最大の余震(M7.3)は、本震の翌日の9月2日に房総半島の勝浦沖で発生し、勝浦市などで被害が生じた。また、本震の4ヶ月後の1924年1月15日には、M7.3の余震(丹沢地震と呼ぶこともある)が丹沢山地で発生し、神奈川県中南部に大きな被害を与えた。
なお、関東地震を契機にして、それまでの震災予防調査会に代わる研究機関として、1925年に東京大学(当時は東京帝国大学)に地震研究所が設立された。