(1)明治三陸地震(1896年6月15日、M8 1/2)及び三陸地震(1933年3月3日、M8.1)

明治三陸地震と三陸地震は、ともに津波による被害が非常に大きかったために、それぞれの地震に伴って発生した津波は明治三陸地震津波、三陸地震津波とも呼ばれる。この項では、それぞれを明治の地震、昭和の地震と呼んで区別して説明する。

 明治の地震と昭和の地震は、ともに太平洋プレートが陸側のプレートの下にまさに沈み込みを行おうとする日本海溝付近で発生した。これまでの研究の結果、明治の地震は逆断層型のプレート間地震、昭和の地震は太平洋プレート内で発生した正断層型の地震であると考えられている。どちらの地震も、地震を感じてから約30分〜40分後に大きな津波が来襲し、太平洋沿岸部を中心として、明治の地震では26,360名{14}昭和の地震では 3,064名の死者{15}が報告されるなど、家屋・船舶などを含めて非常に大きな被害が生じた(図4−6図4−7)。

 津波の高さは、2つの地震とも、現在の岩手県三陸町綾里で最大となった。明治の地震の津波の高さは38.2mで、これは明治以降に日本付近で記録された津波の高さの最大である(図4−8)。昭和の地震の津波の高さも23.0mと大きなものであった(図4−9)。明治の地震は、地震動はあまり大きくなく、最大でも震度4程度であった(図4−10)とされているが、津波の高さは非常に高く、通常の地震より断層がゆっくりとずれる津波地震であったと考えられている。昭和の地震は、明治の地震より地震動が強く、太平洋の沿岸地域を中心に震度5が観測され、壁の亀裂、崖崩れなどの被害が生じた(図4−11)。

 余震活動を見ると、明治の地震では、本震の次の日の6月16日に2つのM7.5の地震が発生しており、これらが最大の余震であった(図4−12)。昭和の地震では、本震の約3時間後にM6.8の最大余震が発生しており、本震発生後約半年間にM5以上の余震は77回観測された(図4−13)。

 昭和の地震による津波は、近代的な津波観測・研究体制が整ってから初めてのものであったため、津波に関する多種の研究が行われ、リアス式海岸のようにV字型の湾を持つところでは特に津波が大きくなることなどが明らかにされた。なお、後日の研究により、V字型の湾で津波が大きくなるのは日本近海など比較的近くで地震が発生した場合であり、1960年のチリ地震津波など遠い地域で発生した地震による津波の場合は、湾口が狭く湾奥が広いような湾の方が、湾奥で津波が大きくなる特徴があることが分かった。これは、津波の周期の違いによるものと考えられる{16}