(2)ボーリング調査

この地域では、検土壌(手堀による簡易ボーリング:角田,未公開)による調査が行われているのみであり、本格的な調査は行われていない。

今回の調査では、断層に直交する測線を設定し、地形的から断層による撓曲とみられる範囲を挟んだ2カ所でボーリングを実施した。深度はいずれも立川レキ層(上面約3万年前)が確認されるまでとした。

図2−11に調査位置図、図2−12に断面図を示す。

撓曲の西側(沈降側)のボーリング97−10孔では、深度5.53m以深で立川レキ層が出現する。それ以浅は砂からシルトに上方細粒化を示すゾーンと、さらに上位には、ほぼ均質で多色性に富む粘土層および腐植土層が出現する。

深度4.64mから立川レキ層が出現するまでの間は、15cm〜30cm程度の厚さで、中砂から腐植物を多く含むシルトへ、上方細粒化のサイクルを示す地層が3つ確認できる。

さらにその上位に、粘土層が地表付近の人工改変による盛土直下まで続く。粘土層は、わずかに水平葉理が見られるものの、ほぼ均一の粘土からなり、乳灰〜緑灰〜灰褐色の多色性を示す。また、粘土中には鉛直方向の植物根が混入している。

ボーリング97−10孔の粘土層は明瞭な地層境界が見られないため、比較的明瞭な色調の境界部および上方細粒化を示す3層の堆積サイクル毎の植物片を採取し、炭素同位体年代測定を実施した。分析結果を表2−8に示した。砂層から粘土層に上方細粒化する箇所では、22,000〜17,500y.B.P.の年代を示す。この上位の粘土層では、17,500〜1,650 y.B.P.の年代値を示した。

一方、撓曲の東側(隆起側)に位置するボーリング97−11孔では、60cm程度の耕作土の下に陸生の砂質ロームが出現し、さらに深度1.28mで立川レキ層が出現する。従って、立川断層を挟んで立川レキ層の上面の標高を比較すると、5mほどの差があることが明らかになった。

立川レキ層の形成時には、西から東へ流れる優勢な河川の流路の中であり、立川断層の活動が発生し多少の凹地が形成されても、たちまち砂礫層で埋め立てられるような堆積環境であった。およそ1%東傾斜の地形面を形成したのは、この時期である。

その後は、流入河川は次第に勢力を失い、立川断層の活動によって地形の食い違いがでると、断層上流側(沈降側)の凹地が埋め立てられるまでの間、一時的に池となり、ここに上方細粒化のサイクルをもって砂・粘土が堆積したと考えられる。

やがて、17,500 y.B.P.以降、この地域が段丘化してしまうと、立川断層の撓曲崖が高くなったこともあって、形成された凹地は広いため池状になり、やがて流出する河川もなくなり、断層活動が発生するたびに深くなる湖沼となった。その堆積物が連続する多色性に富む粘土層であったと考える。

図2−13に、ボーリング深度と炭素同位体年代測定の結果との関係を示した。断層西側(沈降側)の粘土層下面の標高(TP+134.4m)と、断層東側(隆起側)の立川レキ層上面の標高(TP+138.7m)との差が、17,500 y.B.P.から現在までの変位量であり、平均変位速度は、1,000年で約0.25mとなる。これは、山崎(1978)が箱根ヶ崎で算出した平均変位速度(1,000年0.14〜0.27m)とほぼ同等で、立川断層の中心部の代表的な値とみてよい。また、断層北端の霞川付近における今回の調査結果で得られた平均変位速度の約4倍である。

なお、ボーリング97−10孔で最初に堆積した腐植土の年代のうち、同一層内で最も古い年代22,000y.B.P.は、断層活動直後の年代を示している可能性がある。

ボーリング97−10孔は、17,500年前以降、狭山ヶ池が干拓されるまで、一貫して湖沼内にあって粘土が堆積しつづける環境にあり、断層活動の履歴を把握することはできなかった。しかし、狭山ヶ池の周辺は、霞川地区以外で最近の断層活動の履歴に関するデータが得られる可能性のある、貴重な地域であるといえる。

図2−11 調査位置図(瑞穂町箱根ヶ先地区)

図2−12 断面図(瑞穂町箱根ヶ先地区)

表2−9 分析結果一覧表(炭素同位体年代測定:ボーリング・瑞穂町箱根ヶ先地区)

図2−13 ボーリング深度と炭素同位体年代測定の結果との関係