(9)島原市中心部

1)千本木断層東方延長部

千本木断層の東方延長に拡がる低位扇状地V面には、不連続な東西方向の段差地形が認められるが、河川による侵食地形の可能性もあり、明瞭な変位地形は認められない。

1792年の「島原大変」における地震の際、島原城下に東西方向の地割れが出来たとの古記録がある(図7−15図7−1の地点M)。

島原城内の地割れの位置付近で実施したトレンチ調査では、築城当時(西暦1618〜1625)の盛土中に、南北走向でほぼ垂直な割れ目が確認された。この割れ目の両側の土層には上下方向の変位は認められない。割れ目に落ち込んだ腐植土の年代は西暦1650−1890、1910−1950年を、また、盛土中に地割れが生じた後に入り込んだと推定される松の根の年代は西暦1650−1710、1720−1880、1910−1950年を示した。これらの年代値は、盛土の割れ目が1792年の地震による震動で出来たとする考えと矛盾しない(図7−16)。

1792年の「島原大変」の際に地割れが発生したことから、千本木断層東方延長部に断層が伏在している可能性が考えられる。古文書に示された地割れ(図3−8)の西方延長部で、反射法地震探査を実施した(図7−17のA測線:図7−1の地点N)。

反射法地震探査の結果からは、基盤の口之津層群内には変位量の小さな断層が推定されるが、地表付近には反射面の不連続は認められない(図7−18のA測線)。

2)九千部岳U断層東方延長部

既往ボーリング資料によれば、島原市広馬場付近において雲仙火山の基盤(口之津層群)上面深度に最大200m以上の南落ちの落差が推定されており、雲仙地溝の北縁が島原市内まで延長している可能性が指摘されていた(太田、1973、1987:図3−6)。

基盤の変位が推定される島原市内において反射法地震探査を実施した(図7−17のB測線:図7−1の地点O)。

その結果、島原市栄町付近で基盤(口之津層群)上面が200m以上南落ちに変位している断層が確認された。反射法地震探査結果からみると、断層落ち側の標高−60m付近の明瞭な反射面より上位には変位は及んでいない可能性が高い(図7−18のB測線)。

断層落ち側におけるボーリング(SB−1)の結果、標高−61m〜−80m間に、陸上堆積した阿蘇4火砕流堆積物(8.5〜9.0万年前)が確認された(図7−19)。

阿蘇4噴火当時の有明海の海水準は−21m以下とされている(杉谷、1983)。当時の海水準を−21mと仮定すると、SB−1ボーリング地点は阿蘇4火砕流堆積後に、約60m沈降したことになる。これから平均変位速度は0.71〜0.67m/千年以上と見積もられ、活動度としてはB級となる。ただし、この値は海水準の位置や阿蘇4火砕流の堆積標高が不明であることから不明確さがある。

一方、断層上り側で実施したボーリング(SB−2)の結果では、標高−9m付近に6,400〜6,300年前の泥炭層が確認された。縄文海進当時の有明海の海水準が+2.0m付近とされる(長岡他、1997)こと、及び泥炭層は陸上堆積物であることから、SB−2地点は6,400年前以降に、11m以上沈降したと推定され、平均変位速度は1.7m/千年以上と見積もられる。

ボーリング結果からは、断層上り側も断層落ち側も共に沈降していることを示すが、反射法地震探査の結果では、阿蘇4火砕流堆積物より上位には、大きな変形構造は認められない。したがって、この沈降は断層運動以外の要因である可能性もあり、さらに検討が必要である。