「島原大変」の惨状を示す古絵図には、海岸から島原城を通り、千本木方向へ延びる2筋の地割れが描かれている。1条は、城の南側を通り、小役人屋敷に至るもので、もう1条は、城の東の海岸から城内を通り、小役人屋敷に至るものである(図4−51、図4−52、図4−53)。
古絵図の「島原大変前後之図」に附された説明書きよれば、三月朔日の地震により、いたるところに地割れが発生し、幅が三〜四尺(0.9−1.2m)、最大で六尺(1.8m)に及び、深さは不明とされている。さらに、島原城下の広馬場付近では、幅が二〜三尺(60〜90cm)、深さは七尺五〜六寸(2.25−2.28m)所により一丈(3m)に及ぶとされる。この地割れに、堀や河川の水が流れ込んで堀が枯れたり、反対に湧水したりしたと記されている。
また、古絵図「島原大変大地図」の説明書きには、三月朔日の地震の後、小役人屋敷から城の東の海岸まで、深さ七〜八尺(1.8−2.4m)の地割れが出来たと記されている(図4−54)。
現在の島原市内では、地割れの痕跡を認めることは出来ない。古文書の記録でも、「引き割れ」という表現があり、段差が出来たという記載は見当たらない。したがって、地割れは単純な開口割れ目であったと推定される。