しかしながら、平成14年度調査によるボーリング結果からは、唐比低地内で縄文海進時の汀線(最大海進時に現在の標高で+0.9m)付近の地層が、現在標高−10m付近に沈降していることも事実であり、この沈降をもたらした原因を明らかにする必要がある。
唐比低地における千々石断層の西方延長の位置とされた2本のリニアメント位置には、完新統を10m以上変位させる様な断層の存在が否定されたことから、地形や人工構造物の影響で反射法探査で断層の存在に結論が出せない国道251号付近が、千々石断層の西方延長の候補として残された。そこで、国道付近における断層の可能性を検討するため、唐比低地の北側の小沢の中心線に沿う南北の測線(A−3測線)においてボーリングを実施した。
ボーリングは北からNo.12(掘削深度15m)、No.13(掘削深度20m)、No.11(掘削深度25m)の3地点で実施した。各ボーリング位置を図4−2−1に、ボーリング柱状図を巻末に、ボーリング柱状対比図を図4−2−9に、ボーリング柱状断面図を図4−2−10に、コア写真を巻末及び4−2−15に示した。またNo.12とNo.13の珪藻化石分析による珪藻化石分帯を表4−2−1、表4−2−2に示す。
以下に北側より各ボーリングの結果を示す。
@No.12孔
ボーリングの結果、北側のNo.12孔では孔底よりGL−7.66m(標高−4.25m)まで風化した基盤の有喜安山岩溶岩が分布し、その上位に完新世の泥炭・シルトが堆積している。完新統の最下部のGL−7.51m(標高−4.10m)の14C年代は8,360−8,180 cal ybpであった。
GL−5.32m(標高−1.91m)の白色火山灰層は、火山ガラスが50%と濃集し、その90%がK−Ah火山灰のガラスであることからK−Ah火山灰の純層と考えられる。しかし、直下の泥炭の14C年代が7,660−7,565 cal ybpを示し、一般的に知られているK−Ah火山灰の年代(暦年で7.3ka)より約300年古い年代を示す。
珪藻化石分析によれば、No.12孔における堆積当時の古環境は、GL−7.50〜−5.60m(標高−4.09〜−3.79m)が内湾奥部の海水環境、GL−6.80〜5.60m(標高−3.39〜−2.19m)が内湾奥部の汽水環境、GL−5.20〜−4.80m(標高−1.79〜−1.39m)の砂質部が珪藻化石の産出が少なく漸移部。GL−4.40〜−3.20m(標高−0.99m〜+0.21m)が干潟〜後背湿地、GL−2.80〜−2.40m(標高+0.61〜+1.01m)が後背湿地、GL−2.00m(標高+1.41m)以上が湿地環境と推定された。
No.12孔で海の影響が無くなる最も標高の高い層準はGL−3.20m(標高+0.21m)付近であり、そのやや下位のGL−3.58m(標高−0.17m)の14C年代は6,790−6,650 cal ybpである。標高+0.21mの層準は珪藻化石から干潟〜後背湿地と考えられることから、最大海進時の汀線と見なせる。
諫早付近の最大海進が+0.9mとされる(長岡他、1997)ことから、No.12孔地点は縄文海進当時(約6500年前)から0.7m沈降したと考えられる。
ANo.13孔
国道南側のNo.13孔では、孔底よりGL−16.04m(標高−15.05m)まで基盤の有喜安山岩溶岩が分布し、その上位に時代不明の砂礫層がGL−2.68m(標高−1.69m)まで堆積している。その上位は泥炭が堆積しており、泥炭最下部のGL−2.50m(標高−1.51m)の14C年代は5,900−5,660 cal ybpである。
GL−16.04〜−2.68m間の砂礫層の礫は基盤の有喜安山岩類由来の両輝石安山岩とともに角閃石斑晶を含む雲仙火山由来の礫を含み、礫の多くは風化している。雲仙火山由来の礫を含むことから、この砂礫層は基盤の表層風化部ではなく唐比低地北側の有喜火山岩類からなる丘陵および雲仙火山の火山麓扇状地からもたらされた砂礫層であると判断される。炭化物等が全く含まれないため、砂礫層の堆積時期は不明である。
基盤岩の岩相・風化程度の違いより、No.12孔とNo.13孔の間に基盤岩中の断層の存在も推定される。
一方、完新統の年代測定結果から内挿で求めた5.0ka、5.5kaの対比線は、No.12孔−No.13孔間で地形断面とほぼ平行な南下がりを示し、完新統に大きな変位を示す断層は考えにくい。
BNo.11孔
A−3測線南端のNo.11孔では孔底からGL−23.80m(標高−24.16m)まで基盤の有喜火山岩類の安山岩溶岩が分布する。その上位にはNo.13孔と同様に有喜安山岩類と雲仙火山の両方の礫を含む砂礫層がGL−10.32m(標高−10.68m)まで堆積しており、その後はシルトと泥炭の完新世堆積物が堆積している。完新統最下部のGL−10.15m(標高−10.51m)の14C年代は8,515−8,365 cal ybpである。
GL−8.69m(標高−9.04m)の白色火山灰層は火山ガラスの含有量は少ないものの、火山ガラスの7割がK−Ah火山灰由来のガラスからなる。この火山灰層を挟む下位のGL−9.27m(標高−9.63m)及び上位のGL−8.63m(標高−8.99m)の14C年代値はそれぞれ7,175−6,895 cal ybpと6,870−6,675 cal ybpを示すことから、白色火山灰層の年代は暦年で約6800年前と推定される。この年代値は町田・新井(2003)によるK−Ahの降下年代(7.3ka)より約500年若いが、火山ガラスの7割がK−Ah火山灰由来のガラスからなることからK−Ah火山灰の純層である可能性が高い。年代値が若い問題は不明である。
一方、珪藻化石分析の結果による堆積環境は、GL−10.20〜−9.40m(標高−10.56〜−9.76m)間で海域から汽水域へと変化し、GL−9.00m(標高−9.36m)では一時的に後背湿地の淡水環境となった。GL−8.60〜−8.20m(標高−8.96〜−8.56m)までは再び閉鎖された海域となり、GL−7.80〜−5.80m(標高−8.16〜−6.16m)では淡水化して後背湿地の環境へ、更にGL−5.40〜−4.60m(標高−5.76〜−4.96m)では池沼の環境となったと考えられる。
その上位のGL−4.20〜−1.85m(標高−4.56〜−2.21m)ではやや水位が低下し、しかも海水の影響が及ぶような塩性湿地になったと推定される。この間に海水の影響があったことはGL−3.90〜2.40mのシルトに貝化石が含まれることでも示される。
以上の堆積環境の検討結果からNo.11地点では、一時的には淡水環境の時期(GL−9.00m:標高−9.36m付近)はあったが、GL−10.20m(標高−10.56m:約8.5ka)からGL−8.20m(標高−8.56m:約6.3ka)までは基本的に海の環境であったと考えられ、GL−7.80m(標高−8.16m)からGL−4.60m(標高−4.96m:約4.8ka)では淡水環境になったと考えられる。その後GL−4.20m(標高−4.56m)からGL−1.85m(標高−2.21m)は再び海水が流入するような環境になった。
海水環境から淡水環境へ変わった時期は、GL−8.20m(標高−8.56m)とGL−7.80m(標高−8.16m)の間であり、GL−8.17m(標高−8.53m)の14C年代が6,295−6,175 cal ybpであることから約6000年前頃と推定される。
一般に、海進後の海退の開始を示す非海成層の直下の海成層は、海進最盛期の汀線とみなせる。したがって、約6000年前における海成層の最上部は、縄文海進最盛期の汀線であった可能性が高い。したがって、No.11孔における縄文海進最盛期の汀線は標高−8.56mと−8.16mの間にあると考えられる。
一方、諫早付近における縄文海進の最高海面は+0.9mであるとされており(長岡他、1997)、No.11孔地点は縄文海進以降、諫早付近に対して約9m(9.06m〜9.43m)沈降したことを示す。この結果は、平成14年度調査における唐比低地西部におけるNo.2ボーリングコアで見積もられた沈降量とほぼ同じ結果である。
さらに、上述した国道北側のNo.12孔における縄文海進最大期の層準が現在標高+0.2mにあることから、No.11孔地点はNo.12孔地点に対しても約8m(8.36m〜8.76m)沈降していることが明らかとなった。
また、No.11孔では縄文海進以後淡水化した環境がGL−4.20〜1.85mで再び海水の影響を受ける環境になったことが示されている。この2回目の海水の浸入がNo.11地点の沈降の結果であるとすると、GL−4.36m(標高−4.72m)の14C年代が4,840−4,580 cal ybpであることから、沈降は約4500年前に起こったと考えられる。
CA−3測線ボーリング結果の検討
No.13孔の基盤直上の風化砂礫が基盤上部の風化層である可能性があるため確実な数値ではないが、各ボーリングにおける基盤上面は、No.12−No.13間で約9.6〜10.8m、No.13−No.11間では約8.2m〜9.4mの標高差がある。
国道の南側のNo.11、No.13孔における基盤の有喜火山岩類の上位の雲仙火山由来の礫を含む砂礫層の堆積時代が不明であるが、これが完新世の堆積物とすると、完新世の堆積基盤となった原地形面としての基盤の上面形状は北から南に向かってほぼ直線状であり、断層を示す証拠はない(図4−2−10の緑線)。
しかし、珪藻化石や年代測定結果から、北側のNo.12地点では、縄文海進最高海面位置が標高+0.2mにああるが、No.11地点では縄文海進最盛期の汀線堆積物が標高−8.16mないし−8.56mに沈降していることから、No.11地点が相対的に約8m沈降している。
沖積層の年代測定値から内挿した5.0kaと5.5kaの同時面(図4−2−10の赤一点鎖線)は、No.12からNo.13に向かって約2m低くなっているが、これは現在の地表面の比高差とほぼ同じであり、両地点間の沖積層に変位はないと考えられる。
一方、No.12−No.13間の基盤上面には約10mの比高差があり、これを埋めるように有喜安山岩の輝石安山岩礫と雲仙火山由来の角閃石安山岩礫を含む砂礫層が堆積している。No.11とNo.13の基盤の有喜火山岩類の風化度に違いがあることから、この比高差が更新世に活動した断層運動による可能性もあるが、今回の調査では断層を示す証拠はない。
A−3測線の南部のNo.13−No.11間では、沖積層の5.0ka、5.5kaの同時面はNo.11側が約5m低下している。また基盤上面の比高差は約9mNo.11側が低下している。
以上の結果からは、A−3測線における断層の存在を直接確認は出来なかったが、少なくとも縄文海進以後、No.12とNo.11の間で、唐比低地側が約8m沈降したことは間違いないものと考えられる。