増毛山地のテクトニクスは,第三紀中新世以降のユーラシアプレートと北米プレートの相対的な運動を反映している(藤井・曽我部,1978;保柳ほか,1986;木村・宮下,1986;保柳,1989など).ジュラ紀後期〜白亜紀前期以来,増毛地塊(山地)は東北日本の大部分とともにユーラシアプレートの一部であった.中期中新世になると,西部北海道は日本海の拡大に伴って東進し,それに中央部北海道における右横ずれ運動および太平洋プレートの斜め沈み込みが同時に作用し,北海道付近はユーラシア・北米プレート(オホーツクプレート)の斜め衝突の場へと転換した.その衝突の場には,天塩−石狩トラフと呼ばれる細長い堆積盆が形成され,増毛地塊は天塩トラフと石狩トラフの境界部の西側に存在していた.その後,増毛地塊が山地化を開始するのは,後期中新世になり太平洋プレートの斜め沈み込みに伴って,千島弧外帯の西進運動が顕著となり中央部北海道の南半部が南〜西南西方向へ移動し,その際に増毛地塊がその運動に対して抵抗して,現在の空知中部に右横ずれ成分を伴う東西圧縮運動が生じたためである.この運動により,増毛山地とともに,その東側には砂川低地帯および滝川・深川盆地の原形が形成され,境界ゾーンには西緩東急の褶曲群や逆断層群が形成された.
その後,ユーラシアプレート(アムールプレート)の東進に伴って,鮮新世中頃から日本海東縁部における東西圧縮運動が本州中部からサハリンにかけて活発化した.その活動帯は“日本海東縁変動帯”と呼ばれている(岡,1997)が,増毛山地とその東側の低地帯・盆地もその中に位置づけられる.