さらに,馬路測線付近には,L1段丘やL2−2段丘に挟まれるほぼ南北方向に延びる閉塞低地が分布する。この付近を横断する測量測線(図3−5−1,KS1)とピットから得られた炭素年代からL2−2面は北に緩く傾動し,その東側上流側に閉塞低地が分布する。
馬路測線で確認されたF2断層のおおむね@上盤付近にL2−2面が逆傾斜することやAF1,F2断層の延び方向とL2−2面と閉塞低地およびその東側のL2面の分布の延び方向が,一致する。地下に分布する断層との対応は明確ではないが,低位段丘L1面形成以降にF1+F2断層の活動によって,このような特異な地形(変位地形)が形成されたとかなりの確度で推定できる(図4−4−6)。ピット掘削(P4,P5)から,L2−2面とその前面氾濫平野2面(fp2)の表層堆積物中から約3千年前頃の年代値を得ている。年代試料が充分でないため,不確かではあるがF1あるいはF2断層は約4千年以降に活動した可能性がある。
亀岡盆地には見事な条里遺構(正東西南北条里地割)が空中写真から判読できる。この地割は灌漑システムを伴い,水田農業の骨格をなし,奈良時代から維持されてきたものである。当時の水田形状を今日まで他とは比較にならないほどよく伝えている。保津町から馬路町までのF1断層沿いには条里遺構が残されている。一部で,七谷川あるいは桂川の流路変更による不明瞭な箇所があるものの,基本的な形は保持されており,条里は読みとれる。ここに伏在断層の動きによる条里の屈曲は認められない。また,古文書等に亀岡盆地での地変が読みとれないことなどから,条里遺構が形成された奈良時代以降に断層が活動した可能性は少ないと判断した。
※:一方,馬路町付近の低位段丘付近や山麓で標高150m以上の低位段丘や扇状地は,古代の水田開発の出来ない,条里遺構の空白域である。馬路町ではここに,千歳車塚古墳がある。北には時塚と呼ばれる地名があり,周囲から一段高い段丘上は,古墳時代の大墓域であったと思われる。車塚古墳は大規模で,その形状は左右対称でなく,ややねじれた形状を示す。形成後の地震による変形も考えられるが,当初からこのような形状であったと説明されている(亀岡市史,2002)。
この低位段丘から西側の低地に広がる条里遺構を見ると,条里が示す方位が一定しない。それらは条里の施工時期の異なりと解釈されている(亀岡市史,2002)。