保津町から河原林町までの盆地東側の標高100〜110m付近に低位段丘面が広く発達する。ここでは、沖積低地と比高が5〜10mある。しかし、七谷川から北部の東側では、低位段丘と沖積面との比高差は2〜3m程度と小さく、また、山麓と低位段丘との間に、溝状の沖積面が南北に延びるため、低位段丘の存在や分布はより不明瞭となっている。なお、この溝状低地の西側には、筏森山(標高295m)、多国山(191m)、呉弥山(164m)等の基盤岩上面の高まりがあり、それは南に高度を下げ、下池周辺で不明瞭となる。この段丘面を山側から延びる扇状地が覆うように発達している。文献などを参考にすると、盆地南部の保津町や馬堀付近では、細礫や砂から低位段丘面は構成されており、盆地南西の曽我部町天川付近では寒冷型植物遺体(ミツガシワ、チョウセンマツ等)を含む泥炭を挟むことから、低位段丘形成期の約2〜3万年前には、亀岡盆地南部は寒冷で、湖沼的な環境が予想されている。
盆地南部、河原林から保津にかけて、低位段丘崖は明瞭で、直線的な側方浸食を受けたことが分かる。この付近の沖積面には、旧河道跡が認められる。保津峡への入り口付近の盆地側では、現在も低湿な水田が広がる。たびたび逆流氾濫による水害に見舞われ、江戸時代には洪水から水田や集落を守るため、様々な治水対策*1がなされたが、それでもしばしば湛水域となった。このことから、この付近が明瞭な沈降域*2であることが、推測される。
注*1:江戸時代には、頻繁に起こる洪水から水田を守るために石積み水制工で桂川(大櫃川)に堤防を築き、保津峡の巨石や入り口の岩石を砕き、盆地の湛水化を軽減した。多くの物質を京都に運ぶために、本格的な保津峡の開削、拡幅が1606年角倉了以によってなされた。以降、木材の筏流し以外、船により炭、米、石材が京都に運ばれた。保津峡入り口の北側の請田神社や南側の桑田神社は保津峡の鍬入れに係わったとされる。
注*2:保津峡入り口付近の河川勾配は緩く、逆に、桂川上流の八木町付近の方が急傾斜である。亀岡盆地での沈降速度と比べ、保津峡付近より東側の山地の隆起速度が大きい。