0 層 耕作土(客土)
1 層 盛 土
2 層 黒色〜黒褐色シルト
3 層 礫混りシルト層(含K−Ah火山灰)
4 A層 腐植質シルト層(含ATn火山灰)
4 B層 礫混りシルト層
4 C層 砂礫層(チャネル堆積物)
Aso−4s(Aso−4火砕流堆積物の二次堆積物で砂礫層、M2面堆積物相当)
Aso−4 (火砕流堆積物)
(1) Aso−4火砕流堆積物
本堆積物は断層の南側の最下層をなすもので、多量の白色軽石を含む灰白色の火砕流堆積物である。この堆積物は、円礫を外来岩片として多数含む。分岐した2条の断層で挟まれた部分は、かなり褐色化を示し、軽石は粘土化している。なお、本堆積物は予備トレンチ南側の基底部にも、上部層の3層に覆われて分布する。
(2) Aso−4s(Aso−4火砕流堆積物の二次堆積物、M2面堆積物に相当する砂礫層)
本堆積物は断層の北側の最下層の地層である。白色軽石を含む褐色シルトが主で、他に大きな安山岩の円礫(最大50cmに達する)を含み、単層の厚さ30cm以下の多数の砂礫層が挟まれる。この砂礫層は小円礫以外に角礫〜亜角礫も多い。また、軽石や角閃石の結晶も多い。
本堆積物は、ボーリングの結果では直下のAso−4火砕流堆積物に風化層を介在せず、直上に分布することから、Aso−4火砕流堆積物の直後の二次堆積物と推定され、地質踏査で記したM2面堆積物に相当するものと判断した。
(3) 4 A層(腐植質シルト層)
東側壁の一部にのみ見られる地層で、黒色〜黒褐色のシルトよりなる。本層の基底は概ね平坦であるが、3層がアバットする付近では、3層の基底に沿って垂れ下がっている様に分布する。本層内の黒色腐植土部は非常に不規則な形状をなす。
本層の上部にはATn(姶良火山灰)の存在が火山ガラスの顕微鏡観察により確認された。この確認法は、腐植土層を深度方向に約1m区間を5cm毎に試料を連続採取し、各試料を水洗した。その後、顕微鏡観察により火山ガラス形状に注目し確認した。
本層の下部は下記の4 B層に不整合に覆われ、上部は3層に覆われる。
本層は最大1m程度の厚さである。断層北側部分では分布しない。
(4) 4 B層(チャネル堆積物)
本堆積物は断層の両側に分布する砂礫層や砂層からなる。礫層は細〜小礫の亜円〜角礫からなり、礫種は安山岩を主としする。本堆積物の一部はシルトの薄層(10cm以下)を挟在する。断層の南側では、チャネルの東壁がトレンチ東側壁に認められる。またチャネル西壁が2m平場の断層の北側に認められ、断層の南側ではトレンチ西側壁の掘込み部分で観察される。
また、トレンチ西南隅ではチャネル堆積物が撓曲し、Aso−4火砕流堆積物の突出部にアバットしている。
トレンチ東側壁では、砂礫層と北側から来る腐植質の黒色シルト層と指交関係にあるのが認められる。この腐植質土は上部の4 C層とは4 A層を介し、別の地層である。後述の年代測定では20,280±570〜20,280±570yBPの年代が確認された。
なお、トレンチ東側壁や西側壁では、チャネル堆積物がAso−4火砕流堆積物内に割れ目充填物として食い込んで分布するが、その部分は暗褐色でオリジナルな堆積物よりルーズであり、裂っか充填堆積物と判断した。
トレンチ西側壁で断層北側の深度2mの小段の直下に同時期の砂礫層が分布するが、礫径が中〜小礫のやや黒色を呈する砂礫層であり、上記のチャネル堆積物とは時代を異にしていると判断される。この砂礫層に対応するものはトレンチ内では認められない。
(5) 4 C層(礫混りシルト層)
本堆積物は、深度2mの小段より上で予備トレンチ西側壁の一部と東側壁に分布する。本層は礫混りシルトや砂礫層からなり、砂礫層はやや連続性を欠く。最大厚さは1m以下である。
(6) 3 層(礫混りシルト層)
予備トレンチの全壁面やトレンチ南側壁と西側壁に分布する。
本層は細礫を散在的に、または密集して含む褐色シルトが主である。砂礫層は旧谷地形部分に認められ、特に予備トレンチの南端部では大〜中礫が基底部に分布している。本層は4層を不整合に覆う。断層の北側の本層は緩く北に傾き分布する。
本層は2m以下の厚さである。
(7) 2 層(黒色〜黒褐色シルト)
本堆積物は深度2mの小段の上の北側壁面から西側壁や南側壁にかけて連続し分布する。予備トレンチ南端にも分布する。
本層の厚さは0.3〜1m程度である。本層は黒色〜黒褐色の腐植質のシルトで、中〜細礫が散在的に分布する。本堆積物の中部で僅かに赤褐色を帯びた部分が赤ホヤ火山灰(K−Ah)に相当する。断層付近では本堆積物はやや傾いた地層となる。しかし、明瞭な断層は4C層にとどまり、本層内で断層は確認されない。
本層の腐植土質部分から後述の年代測定で9,750±80〜20,280±150yBPという年代が得られた。
(8) 1 層(盛 土)
本層は深度2mの小段の西側壁の断層より北側と上部の北側壁のみ分布し、厚さ1m程度で、中〜小角礫を多数伴い、断層より北側の西側壁で煉瓦片が確認され、盛土と判定した。
この盛土は確実な時期を特定できなかった。しかし、付近の古老(80歳程度)の記憶にないようで大正〜明治期の盛土と推定される。
(9) 0 層(耕作土/客土)
本層は最上部の灰色の砂質シルトで、厚さ15〜20cmで安定した厚さを有し、その基底は非常にきれいにならされている。この客土も古老の話では記憶にないとのことでかなり古いものと推定され、客土が昭和初期と考えられる。
なお、1694年以降の旧記録をまとめた粟津(1985)によれば、江戸時代にも当地に大きな地震は記録されているが、田中地区での地震災害は記録は認められないとしている。