1−3−2 立田山断層

吉井(1955)は金峰山(西山)周辺の岩石の露出状態やその走向・傾斜等を記載して、東西向断層、北東向断層、北西向断層、同心円状断層 等多くの断層を想定した(図1−1−7)。そして、西山地域は金峰山を中央火口丘とする二重火山をなし、その外輪山はこれらの多くの断層によりはなはだしく変形を受けており、花岡山、独鈷山、城山等の丘陵(山地)は外輪山周辺部に沿う同心円状断層で分離したもので、立田山地も断層で分離し、傾動した丘陵(山地)であると結論している。

図1−1−7 吉井(1955)による西山山地の断層

経済企画庁・熊本県(1958)の 5 万分の 1 土地分類基本調査『熊本』では、上記の立田山、花岡山、独鈷山、城山等の山地の西側を通る断層の存在を考えている。しかし、その断層は図示されていない。熊本県(1962)による 20 万分の 1 熊本県地質図では、金峰山火山の外輪山と立田山、花岡山、独鈷山、城山等の地質時代は同一であり、地質的にも外輪

山と同質の火山噴出物(安山岩、玄武岩溶岩、凝灰角礫岩)として取り扱われている。しかし、その間に断層は図示されていない。なお、九州地方土木地質図編纂委員会(1986)による九州土木地質図でもこれらの考えは踏襲されている。やはりその間に断層は図示されていない。

この後、渡辺(1984)は、立田山、花岡山、独鈷山、城山等の山地の西側を通る断層を活断層と認定し、立田山断層と命名した。さらに、渡辺(1987)は立田山断層そのものあるいはその派生断層を記載している。

宮本昇ら(1962)は阿蘇火山西麓の地下水に関する調査結果を整理して、この地域の台地を白水面、菊池面、託麻面、保田窪面の四つに区分するとともに、阿蘇火砕流堆積物を挟在する花房層の存在と地下水の賦存状況から、新期と旧期とに二分した(図1−1−8)。

図1−1−8 宮本ら(1962)による阿蘇西麓台地の地質図

渡辺・田村(1981)は宮本ら(1962)の菊池面の東側が Aso−4 火砕流堆積物の堆積面であることを明らかにし、さらに堀川の北側の菊池面の西側と堀川の南側の一段低い託麻面とは元来同一の地形面が断層により変位したものであるとして、宮本ら(1965)の菊池面と託麻面とを合わせて、改めて託麻面と再定義した(図1−1−9)。

図1−1−9 渡辺・田村(1981)による大津付近の地質図

阿蘇カルデラの西側の地質、特に、第四系については、渡辺・小野(1969)、渡辺(1972)、松本(1974)、Watanabe,K(1978,9)、渡辺・田村(1981)などにより調査されている。また、渡辺(1984)は阿蘇カルデラの西方地域の活断層群を記載している(図1−1−10)。

熊本県・熊本市(1994)による熊本地域の地質図を 図1−1−11 に示す。

図1−1−10 渡辺(1984)による阿蘇カルデラ西方地域の活断層群

図1−1−11 熊本県・熊本市(1994)による熊本地域の地質図

山崎ら(1984)の活構造図『鹿児島』(1/500,000)では、阿蘇カルデラ西方の立野から大津町を経て合志町の飯高山の南にいたる東西方向の断層が活断層とされ、白川左岸の神園山北側にも活断層が分布するとされている(図1−1−6−1図1−1−6−2図1−1−6−3図1−1−6−4)。

立田山断層を命名した渡辺(1984)は、立田山断層は立田山北麓から熊本市街地の中心を北東から南西方向に斜断し、高橋町に延びる活断層であり(図1−1−12)、京町台地を構成する Aso−4 火砕流堆積物を変位させていること、また、保田窪面および白川が堆積させた沖積地を変位させていることを述べている。また、阿蘇カルデラ西方地域の基準面や鍵層の鉛直変位の変位速度の上限は約 3 万年前までは約 1.5 mm/年、それ以降の新しい時代で約 0.05 mm/年としている(図1−1−13)。

図1−1−12 渡辺(1984)による立田山断層

さらに、渡辺(1987)は熊本市楡の木で立田山断層そのものあるいはその派生断層を記載し、観察した断層のほとんどは断層面が垂直に近い北落ちの正断層で、かつ右ずれ成分を有することを明らかにした。また、立田山断層は Aso−4 火砕流堆積物とほぼ同時代に形成されたと考えられる砂礫層および赤ボク(2.2 万年前の姶良火山灰(ATn)を含む)までを切っている(赤ボクの変位量は 1.7 m 以上)が、黒ボクまで確実に切っているかどうかは確認できないとしている。また、立田山断層の総変位量を小山地の地形から 250〜300 m と推定している。

図1−1−13 渡辺(1984)による阿蘇カルデラ西方地域の基準面や鍵層の垂直変位量と年代との関係

最近、岩内ら(1997)は金峰山東部斜面を構成する古金峰火山岩類を 4 つに区分し、古金峰火山岩類 V とほぼこれを整合的に覆う古金峰火山岩類 W の境界が坪井川の両岸に分布することを示した。そして、両火山岩類の境界面は標高にして約 100 m の落差が存在することやその落差の要因が花岡山・独鈷山・城山の北西縁を通り、北東−南西に延びる伏在断層(吉井(1955)および渡辺(1984)による立田山断層))によるものと指摘した(図1−1−14)。

活断層研究会(1991)は、立田山断層の記載をしていない。九州活構造研究会(1989)も、立田山断層(熊本および植木図幅)の記載をしておらず、立田山(151.6 m)の西麓に「層理・地層の境界など」の直線を引き、その実体について再検討の必要性を述べている(図1−1−15)。

なお、久保寺ら(1986)は、立田山断層が 1889 年(明治 22 年)に起こった熊本地震(M=6.3)の起震断層である可能性を指摘している。

1889 年(明治 22 年)の熊本地震については、水島 貫之(1889)の『熊本明治震災日記』や九州日々新聞(2026〜2041 号)に、液状化にともなうと考えられる噴砂・噴水現象の状況が記録されている。それらによると、被害の数は 44 ヶ所で、うち 25 ヶ所が市街地で、残り 19 ヶ所が旧飽託郡や佐賀県で発生している。市街での被害の中心は熊本城の東南〜南部の坪井川沿いに集中している。また、ほとんど地割れや陥没をともなっており、熊本地震でかなりの被害が生じたものと考えられる。断層についての報告はみられない。

図1−1−14 岩内ら(1997)による地質断面図

図1−1−15 九州活構造研究会(1989)の「層理・地層の境界など」の直線と地形分類