北武断層の系統的な谷の屈曲とその横ずれ変位量は、断層東部から中部地域が最も大きく、中部から西部域へ行くにつれて漸減し西端部でほぼみられなくなる(太田ほか、1982)。今回の空中写真判読でもこの傾向が確認でき、特に系統的な谷の屈曲は中部の小田和川以西で認定しにくくなる。各々の谷の横ずれ量をどのように評価するかは今回詳細には解明できなかったが、右横ずれの明瞭度や隣り合う河川が連続して屈曲しているかなどから、北武断層の変位量を推定すると、上記の様に断層東部〜中部地域が100〜220mと大きく、中部から西部にかけて減少し、変位地形の認められない西端部(松越川中流付近)で収束していると考えることができよう。
既存資料による北武断層の最新活動時期は、東部野比海岸付近では、
(1)北武断層陸上部のほぼ東端にあたる国立久里浜病院敷地で実施されたトレンチ調査から、1050〜1250yBPとされている(佐藤ほか、1994)。
(2)国立久里浜病院北西方の谷で実施されたボーリング調査からは、1000〜1500yBPとされている(太田ほか、1991)。
西端部松越川中流地点では、
(3)トレンチ調査の結果では、北武断層の西方延長と考えられる基盤の断層(破砕ゾーン)は葉山層群中には確かに存在するが、それを覆う完新世の礫層を切っておらず、少なくとも、約3,300年前以降現在まで断層活動はなかったものと結論されている(神奈川県環境部、1995)。
の報告がある。
今回の調査結果による最新活動時期は以下のようである。
(4)断層西部地区にあたるNo.1地点(芦名野々池)の調査では、完新世の河成堆積物を切る横ずれ変位量60cm以上、上下変位量約20cmの右横ずれ変位の卓越した断層が確認された。その最新活動時期は切った切られたの関係から、1400〜1300−1200yBPで ある。
(5)No.3地点(太田和)の調査では、北武断層に沿う位置で完新世の地層に変形がみられた。その年代は840±90yBP以後、660±85yBP以前である。この地層の変形を、北武断層に起因すると考えると、北武断層東端の既存資料や西端付近のNo.1トレンチで求められた最新活動時期と異なる時期となり、一連の右横ずれ変形様式を示す陸上部8.5k程度の断層を3分割し、それぞれ個別の活動を想定することとなる。
一方、この変形を北武断層以外の地震動によるとみなす考えもある。すなわち、660±85yBP(西暦1290±85)頃以前には、鎌倉M7.2(西暦1241)、関東南部M7.0(西暦1257)、鎌倉M7.1(西暦1293)などの地震があり、これらの地震動による可能性などが考えられる。また、No.1地点では北武断層の変形を受けていない上部層に、砂や礫の立ち上がりや液状化の跡と考えられる地層の変形が認められ、その年代は 500±110yBP〜243yBPである。これらの現象がほぼ同時期に発生した可能性も考えられる。
よって、No.3地点の地層の変形は、一連の変形様式を示す比較的短い断層が、個別の時期に活動したとするより、北武断層の最新活動時期以後に本断層以外の地震動によって生じたものと推定される。No.3地点の最新活動時期は、少なくとも660±85yBP以前であるが、その時期を特定することはできない。
北武断層の最新活動時期は、上記既存資料および今回の調査結果から、東部の野比付近から西部の松越川中流域付近までの断層全体を通してほぼ同時期(1000〜1500yBP)とすることができる。
また、西端部(松越川中流地点)では、この時期の最近の活動は認められていない。このことと先述の谷の横ずれ量の西への減少とから北武断層の活動は西に向かって収束し、最新活動時期(1000〜1500yBP)の活動は、No.1地点付近を西限としていると考えられる。また、既述のNo.1地点の最新活動時期における変位量は、北武断層の活動の最小値を示すとみなすことができる。