(3)河成堆積物の地質構造および変形

トレンチ法面に露出する河成堆積物の層相などの観察およびボーリング調査の結果から、河成堆積物の地質構造について述べる。

(1)河成堆積物中の礫層(C、D層)のたわみ

トレンチ西側法面は河成堆積物のCおよびD層がよく露出しているのが観察される。C、D層の層相の違いは表5−5−2に示した。図5−5−3−1に示すように、C層はD層の上を被覆しつつ法面南側に堆積し、W30付近で西側法面南端部付近に露出するE層にアバットしている。C層とD層の境界は、法面ではやや不明瞭にみえるが、礫の配列・基質の違い・締まりの程度などによって、両層の識別および境界の特定が可能である(表5−5−2)。C層とD層の境界はW20〜22付近で、見かけ上、10゚内外南西へ傾斜しており、W24付近では20゚程度とやや急になる。 両層の境界はW24以降ではトレンチ底盤の下になり直接、両層の関係を観察することはできない。しかし、W26付近でC層が直接、G層や基盤岩の鐙摺層(I層)の上に分布することから、図5−5−3−1に示したように、C層はD層が堆積し、その後浸食された後に堆積したことを示していると思われる。C層は図5−5−3−1および写真5−3に示すように、上部がW21付近からW32付近にかけて、下方へたわんでいる。特に断層がC層を切る付近では、下方へのたわみの傾向は大きく、法面最下段では粘土化した基盤岩の鐙摺層を削り込みつつ、F層の最上部をも若干削り込んでいる。

C層のたわみについては、

(イ)たわみの程度が断層近くでより大きくなる。

(ロ)図5−5−3−1に示すように、 法面観察の結果から断層はC層を切っており、5−5−4項で述べるように、相対的に北側隆起の断層である。 したがって、断層北側のD層が基盤岩とともに、相対的に北側が上がり、 南側は逆に下がったと考えら れる。

以上、(イ)および(ロ)の理由により、C層の下方へのたわみの原因はW29付近を通る断層によるものと考えられる。

図5−5−3−1 西側法面礫層分布図(D、6a 、6b 層)     分布図(No.1地点)

(2)河成堆積物の堆積状況および横ずれ地形

ボーリング地点(B1−4〜B1−2)間の地質断面図を、図5−2−2(前出)に示した。図5−5−3−2はトレンチの中心を通る地質横断面図である。また、図5−5−3−3は河成堆積物の基底等高線図で、河成堆積物が堆積する前の旧地形を示したものである。

図5−5−3−3を作成するにあたっては、下記に示す事柄に基づいている。

(イ)トレンチ北西側の谷底平野地下に分布する河成堆積物の下限分布深度は、 およそGL−10〜−11mを示す。 電気探査の結果(図5−3−1)をみても同様な傾向を示し ている。

(ロ)トレンチ西側法面に分布する基盤岩に近い河成堆積物D層、F層は北西へ10°〜12°内外傾斜している。このことはトレンチ北西側に、河成堆積物の最深部があることを 示唆する。

(ハ)図5−5−5−3 に示すトレンチ南西付近にみられる尾根の西北西−東南東方向の 張り出しは、ボーリング、 電気探査の結果によって基盤岩の分布深度を把握し、さらにトレンチ法面の観察の結果を考慮して推定したものである。

トレンチ北西側と南側に2つの”谷地形”が認められる。谷を埋積する河成堆積物の最大層厚は約10mに及ぶ。トレンチ北西側の谷底はほぼ平坦となっている。一方、南側の谷は、北武断層の方向とほぼ調和的で西北西−東南東を示し、北側(トレンチ側)の断層に近い谷壁斜面はトレンチ側では急傾斜(約40゚)をなすが、南側は約30゚と緩く、谷の横断形状は非対称をなす。河成堆積物基底近くの地層(ag−1層)の14C年代は約2600〜2300yBPであるので、“谷地形”の形成は少なくともそれより古いことがわかる。

図5−5−3−2は、トレンチ北西側の谷底平野を埋積する河成堆積物の累重状況を示したものである。トレンチ西側法面ではF層が10゚〜12゚北西側へ傾斜しており、谷の中心部付近でほぼ水平に堆積していることがわかる。また、トレンチ北側法面の観察から、A、DおよびF層が基盤岩からなる斜面に張り付くように分布していることが確認された。

図5−2−2は、トレンチ北西側の谷のほぼ中心を通る断面図であり、谷の下流側で河成堆積物の層厚が約6mに対して、上流側では逆に約10mと厚くなっている。すなわち、基盤岩の上限分布深度が上流に向かって深くなっており、通常の場合とは逆になっている。

図5−5−3−3には、河成堆積物下の尾根の方向が、断層の近くで北東−南西方向から西北西−東南東方向に変化しているのが読みとれる。このことは、尾根が右横ずれの活動によって屈曲したことを示しているものと思われる。

図5−5−3−4および写真5−4に、西側法面W20付近にみられるD層下底部の流路跡とそれを充填する堆積物を示す。D層が下位のF層を削りこんだ様子が分かる。

地質横断面位置図

図5−5−3−2 D−D’地質横断面図(No.1地点)

図5−5−3−3 河成堆積物基底等高線図(No.1地点)

図5−5−3−4 W20付近の流路跡を充填する堆積物

写真5−3

(3)C層とE層の関係

図5−5−3−5は、西側法面W30〜W35付近のスケッチ図である。また、写真5−5にW33の法面近接写真を示す。当初、C層とE層の境界面は水平方向で接し、しかも接触面の上部で直線的な境界がみられたことから断層の存在を予測したが、手掘りによって底盤を約1.2m掘り下げたところ、 図5−5−3−5および写真5−5のような状況が露出した。C層は、礫径φ5〜10cm、最大礫径φ20cmの亜角礫を主体とする成層構造をもたない淘汰不良のルーズな礫層である。一方、E層は平均礫径がφ3〜4cmの淘汰の良いやや締まった礫層であり、法面下部でC層がE層に入り込むような状況が観察され、法面最下部ではF層の褐色の有機質粘土が露出した。観察の結果C層とE層はともにF層の上位に分布していることが確認された。

また、D層にはW30〜33にかけて、礫が下方に凹状をなして配列する構造が観察され、さらに直接、基盤岩の鐙摺層を被うことが確認された(写真5−6)。東側法面の最端部と南側法面(S06付近)の両法面の交接部はE層(南側法面)とC層(東側法面)の境層にあたり、観察の結果、C層はE層にアバットして接することが確認された。法面観察による両層の境界は西北西−東南東方向であった。

以上のことよりC層とE層の関係は

(イ)断層ではなくE層はC層にアバットしている。すなわち、 E層の方が古い堆積物である。14C年代値でもE層はD層とほぼ同一の2000〜1900yBPであり、C層はそれより新しく1700〜1400yBPである。

(ロ)C層はW30〜W33付近の基盤岩にみられる窪地を埋積した。

と考えられる。

図5−5−3−5 D層と 6a 層の関係

写真5−4    6b 層にみられる礫の凹状配列

写真5−6 西側法面南端状況近接写真      C層はE層にアバットしている。

                              C層・E層共にF層の上位に分布している。

(4)B層の“火炎構造”と断層

西側法面のW28〜W36にかけて分布するB層は、上部に“火炎構造”状を呈する構造がみられる(図5−5−3−6、前出写真5−1参照)。

B層は、C層の上にのる暗灰色の砂質シルトおよびシルト質細砂からなる。B層直下のC層の上部は、礫が“ハの字状”に配列しており、B層の“火炎構造”の砂の立上がりに連続している。また、A層起源のシルトがB層中に不定形な形状をなして混入している。したがって“火炎構造”は地層の堆積時の変形ではないことが確認される。

W28付近ではC層の下部を切る断層が確認されている。断層はC層の上部〜最上部およびB層に明瞭なずれを与えていない。したがって、B層にみられる“火炎構造”は断層に起因するものではないことが明らかである。“火炎構造”の特徴と上下の地層との関係などから、北武断層の活動による地震ではなく、“火炎構造”は別の地震による地盤の液状化が原因と考えられる。B層の“火炎構造”は、@、A層にみられる砂や礫の立上がりなどの変形現状とほぼ同一の地震によるものと考えられ、地震の時期は@、A層の14C年代および宝永スコリアの年代などから、 500〜243yBP(AD1707)で15世紀半ば〜18世紀初頭に生じた地震によるものと考えられる。蟹江(1993)は、横須賀市久里浜の低地での考古遺跡の発掘の際に、15世紀以降と思われる地震による噴砂を報告している。本地点にみられる地盤の液状化も、その時の地震に伴って発生した可能性がある。

(5)@、A層にみられる砂・礫の変形現象

西側法面のW28〜35にかけては、“火炎構造”を示すB層の上にのる@、A層中に砂や細礫の並びに異常が認められる(図5−5−3−6)。@、A層は、礫混りシルトや砂混りシルトなどからなる。

法面観察の際に、加圧水による法面洗浄を行い、細粒土(シルト、粘土)を洗い流し、構成粒子の配列を調査した。その結果、構成粒子の砂粒子が法面に浮き出して、一見、無層理と思われた@、A層中の堆積構造を見出すことができた。@、A層には平行葉理が極く普通にみられるが、W28〜W35にかけては平行葉理を切って砂や細礫の立上がり(噴砂現象?)が観察された。細礫の立上がりは下位のC層の上部にもみることができる。これらのことから、@、A層にみられる砂や礫の立上がりおよびC層の礫の不自然な配列は、B層の“火炎構造”を生じさせた地震とほぼ同一の地震による地盤の液状化による変形と思われる。砂の立上りは@層中部まで達しており、14C年代から、地震の時期はB層の“火炎構造”の場合と同じく、15世紀半ば〜18世紀初頭と考えられる。

図5−5−3−6 “火炎構造”を有するF層とその上位層の状況

(6)河成堆積物の供給方向

図5−5−3−7は、ボ−リング調査およびトレンチ調査結果より作成した河成堆積物の供給方向(推定)を示したものである。西側法面の最下段(W07〜W09)に分布するD層中には長さ1〜2m弱、径15〜50cmの巨木(2本)が埋もれていた。また底盤の南側付近にもC層中から流木(1本)が発見された。幹の長軸方向の走向・傾斜は、西側法面でN70°〜90°E、N80°〜89°Wでほぼ水平であり、底盤ではN10°Wで水平であった。また、南側法面と西側法面でC層とE層の境界が確認され、その方向はN10°Wであった。これらのことからC、DおよびE層などの礫層を構成する堆積物の供給方向は、トレンチ北西側で北東から南西へ、南側で南東から北西と考えられる(図5−5−3−7)。

図5−5−3−7 河成堆積物の供給方向図