本断層は,「九州の活構造図」(1989),新編「日本の活断層」(1991)により,大崎ヶ鼻から鹿児島市街地を経て同市谷山付近に至る間に,確実度U(活断層であると推定されるもの)として示され,東落ちで長さは20km以上とされている。これらの文献によると,本断層については変位地形はほとんど判読されないものの,鹿児島市街地では,基盤の四万十層群の上面が −500m〜−600m 以深にみられ,その上位に厚い花倉層(鮮新世後期〜更新世初期頃)がのることから,鹿児島湾の沈降は花倉層の堆積期であり,西方の吉野台地に分布する城山層の層相や礫の供給源などからみて,入戸火砕流の堆積後にも,東側が低下する運動があったようにみえるとされている。すなわち,鹿児島湾西縁断層は,地塁・地溝構造をなすいわゆる鹿児島湾地溝の西縁を限る東落ちの断層であると考えられている。
空中写真判読結果及び地表地質調査結果によると,本断層の存在を示唆する地形・地質構造は地表では認められない。
鹿児島市街地における重力探査結果と既存ボーリング資料の解析によると,四万十層群上面及び照国火砕流堆積物に既往文献と同様の地塁・地溝構造が認められた。この構造の中で最大の東落ちを示す位置は,大木ほか(1990)等に示された四万十層群上面の急傾斜部の位置と概ね一致しており,上記の文献により指摘されている鹿児島湾西縁断層は,四万十層群上面の急傾斜部に位置すると考えるのが妥当と判断される(図3−1)。
既存ボーリング資料をもとに作成した甲突川沿いの地質断面図から判断すると,本断層は,四万十層群や照国火砕流堆積物に変位を与えていることが推定され,花倉層堆積途中(前期更新世)まで活動していた可能性があるが,少なくとも城山層(約13万年前)が堆積する前には活動を終了したものと推定される(図3−2)。
しかしながら,上記の解析に用いた資料には,既存温泉ボーリングでの地質区分の決定方法などに不確実な部分が含まれている。また,既往文献等によれば,現在の海岸線のさらに東方の海域にも東側低下の断層が存在する可能性が考えられる。