A本断層帯付近で後期中新世〜鮮新世前半の越川層・幾品層が急傾斜〜逆転現象を示すこと,同後半の陸志別層に礫質岩相の発達がみとめられることおよび平成15年度の浅層反射法地震探査開陽測線の結果から鮮新統の上半部に地層の収斂現象(薄化)が認められることなどから,鮮新世後半に知床半島が山地化し,同時に本断層帯の形成が急激に進んだことが明らかである.
B本断層帯付近で地表に分布する地層状況はは新第三系を基盤として第四系が重なるというものである.この第四系は鮮新統最終間氷期以降の中位面堆積物(上部更新統;厚さで数10m以下でこの付近に分布する本堆積物は非海成・扇状地成で最終氷期への移行期から最終氷期前半のものと思われる),完新世の低位面堆積物1,同2,最低位面堆積物,現河川氾濫原堆積物およびこれらの表層部にともなわれる摩周火山灰層(降下火山灰・ローム・腐植)であり,下〜中部更新統は欠如している.そのため,本断層帯が第四紀の大半の時期(前〜中期更新世;170〜14万年前)においてどのように活動したかについて解明することは極めて困難である.北海道内の著名な活断層である函館平野西縁断層帯・石狩低地東縁断層帯・当別断層・富良野断層帯においては,典型的な逆断層として断層を境にしての変位が古い基準面(層準)ほど大きくなる,すなわち第四紀のほぼ全体を通じて累積するという特徴が顕著であるが,標津断層帯については今のところそのような傾向は見出されない.この理由としては逆断層としての活動度が弱いか,横ずれ成分が卓越しているか,そのいずれでもないかということになるが,現時点では総合的に判断して逆断層としての活動度が弱い可能性が高いと考える.
C本断層帯が活動または活動した可能性については,(1)で述べたように摩周火山灰層が変位を受けた事実はないことから,少なくともMa−lの降灰の約11,000年前以降はほぼないことが分かった.それ以前における活動については,丸山西方断層・古多糠断層・開陽断層北部東側の“撓曲崖”(地形変位部)において中位面1に2〜13mの変位が認められるが,その認定には露頭での地質的裏付けが十分でないことや,変位した中位面の形成時期(変位受ける面としてセットされた時期)が最終氷期への移行期から最終氷期前半のいつ頃かという問題が残されている.
D開陽断層南部については浅層反射法地震探査および地表踏査結果から,付近の地下地質の基本を構成する新第三系(鮮新統)は緩傾斜のスムーズな層状反射パターンの様を示しており,不連続面としての断層そのものや断層的構造である撓曲構造などは全く認められなっかった.第四紀後半の地層を変位させるのが活断層であるが,断層であるからには一般的にはその下位層(新第三系)を変位させているという見地に立てば,開陽断層南部の存在は否定的と言わざるをえない.
E荒川−パウシベツ川間断層については浅層反射法地震探査および地表踏査結果から,新第三系の急傾斜帯に該当することが明らかであるが,活断層としての証拠は今のところ乏しい.リニアメント部(地形変換部)に存在する大露頭で発見した摩周火山灰層下の砂礫層は当初は面の堆積物でないかとも思われたが,直下の幾品層に由来する角礫まじりの不淘汰相であり斜面堆積物の可能性が高く,面堆積物とした場合の異常な変位という設定は成立しない.さらに,地形変換の長いリニアメントの平野側に平野側落ちの変位に見えるの短いリニアメト群が存在するが,それらは地すべり体や小扇状地体の末端崖と判断された.
F平野では,大部分の範囲は中位面1が分布するが,その構成層(更新統)としては,薫別層(「春苅古丹」図幅),川北層・基線熔結凝灰岩(「武佐岳」図幅),古多糠層・薫別層(松井,1961の「薫別」図幅),戸春別層・中標津熔結凝灰岩・茶志骨層(松井ほか,1966の「中標津」図幅;松下ほか,1967の「標津および野付崎」図幅)が示されているが,これらの地層が堆積したと思われる更新世後半について,氷河性海水準変動の関与についての理解が近年急激に進んだこと,これらの地層中にKPW(中標津熔結凝灰岩)・Aso−Wなど6万年前頃を示す火山灰層が含まれること,地表露頭で現われた部分の下位に水井戸ボーリングで海進の証拠である含貝化石部が確かめられることから,これらは最終氷期から最終氷期前半の堆積物であると見なされる.