A.重力探査・地震探査・石油資源探査ボーリング
重力探査によれば,阿寒川中流域から根室海峡沿い標津にかけての部分を中軸とする広い低重力域が存在し,釧路−根室半島(先新第三系隆起帯;V2区)を中軸とする高重力域と大きなコントラストを成すことが明らかになっている(亀谷・吉村,1964;森,1965;図3−5).森(1965)はこのような重力分布と西別SK−1の坑井地質(深度990.5mで新第三系の基底)より,新生代堆積層の厚さを1,300〜1,500mと解析している.一方,1984年に国(石油公団)により基礎物理探査「根釧」(1984年)が実施された(図2−1).その詳しい報告書の入手はまだ行っていないが,概要が示されている北海道鉱業振興委員会編(1990)によれば,1984年に5測線により実施された.根釧堆積盆を横断する方向では,別海町東矢臼別の西別SK−1付近から3測線(X−A−1・−A−2・−A−3 )で中標津町西当幌を通り荒川沿いに養老牛温泉東方に至る約25q間について実施され,知床半島基部寄りに偏し,標津川中流域(西当幌)を最大沈降部とする北急南緩の断面形態が明らかにされた(図3−7の時間断面).それによれば,幾品層下限はその最大沈降部で海水準下2,000mとされ後述のW−W′断面の最大沈降部標津市街付近の970mと比較すると約2倍の値となっており,さらに忠類層基底を4,500m以深に置くなど,問題が多い.さらに,標茶町虹別市街南東から標津町忠類川下流にかけて標津断層帯の南東側に沿って1測線(X−B)および忠類川沿い(国道244号)に1測線(X−C)が実施されている(図2−1,付図1).
B.温泉・水井戸ボーリングなどによる断面解析
近年の温泉開発ブームを反映して,本堆積盆内でも温泉ボーリングが盛んであり,現在約70泉源が存在しており,それらのボーリング・湧出状況の概要は北海道立地質研究所が取りまとめ公表している(北海道立地下資源調査所,1980;二間瀬・松波,1985;松波ほか,1991a;b;松波ほか,1996a;b;松波ほか,2001a;b;鈴木ほか,1995).残念ながらこれらの大部分については詳しいボーリング記録は残されていないが,市町村などの所有する泉源についてはほとんどの場合,地質データと物理検層記録(比抵抗・自然電位・温度)が残されている.ところで,北海道立地質研究所は根釧地域の温泉(深層熱水)の資源的評価を行うために,このようなボーリング記録をもとに重力探査と電気探査を実施し構造解析を行った(松波・秋田,1989).ここではこの解析結果をもとに水井戸ボーリング記録(小原ほか,1973;1976)および新たな温泉ボーリング記録を付け加えて,堆積盆構造についてあらためて解析を行った結果(岡,1994)について紹介する.具体的には堆積盆を横断する方向で4つの断面図(T−T′〜W−W′断面;図3−8、図3−9、図3−10、図3−11)が作成でき,断面毎に地質構造・層序が以下のように解析できる.
T−T′断面(図3−8):釧路川温泉(釧路町達古武沼,ボーリング深度1500m)−岩保木温泉(釧路町,1600m)−釧路湿原南部−釧路市山花泉源(釧路市立動物園,1207.5m)−自然休養村泉源(阿寒町上阿寒,1,413.65m)−舌辛川流域(阿寒町布伏内)を結ぶ.新第三系の厚内層群および阿寒層群の下限については,西の白糠丘陵側で地層傾斜が急で釧路台地側で緩い,非対称な断面形態が明瞭である.厚内層群については白糠丘陵寄りの所で層厚が1,000m程度になるが,東方へ急激に薄くなり,釧路湿原下で尖滅する.阿寒層群については,貝化石としてタカハシホタテ(Fortipecten takahashii)を産出することなどから,その時代は鮮新世とみなされる(加藤ほか,1981).一方,その上位の釧路層群は中〜前期更新世または前期更新世としてとらえられている(岡崎,1966;松井ほか,1987).本層群については水井戸などのボーリング資料にもとづいて下限等深線図が作成され,釧路湿原の北西縁に沿う北東−南西の軸方向をもつ沈降構造が明らかにされている(岡崎ほか,1966;鳥居,1979).しかし,作成のもとになった水井戸のボーリング深度はいずれも250m以内であり,沈降軸部での釧路層群の下限深度が300〜550mに達するという表示には明確な根拠はない.よって,このような沈降構造が本当に生じているかどうか問題がある.いずれにしても,松井ほか(1987)の指摘するように,釧路層群については,その取り扱いについて再検討が必要である.
U−U′断面(図3−9):標茶SK−1(標茶町東阿歴内,1666.8m)−釧路川温泉−鶴居村泉源(鶴居市街,1650m)−阿寒川飽別付近を結ぶ.標茶SK−1については,深度0〜8m完新世堆積物,8〜108.3m釧路層群,108.3〜395m浦幌層群(古第三系),以下白亜系(根室層群,現在の年代論では上部白亜系〜最下部古第三系)と報告されている(北海道鉱業振興委員会編,1968).さらに鶴居村泉源については,二間瀬・松波(1985)および松波・秋田(1989)は0〜15m河岸段丘堆積物,15〜506m釧路層群,506〜1260m阿寒層群,以下厚内層群と地層判定を行っているが,釧路・阿寒層群について他の泉源のボーリング結果や地表地質調査結果と比較して層厚が過大であるため,再吟味を行った.その結果,15〜800m間は砂礫岩・軽石質岩が卓越することから,釧路・阿寒層群に該当すると見なした.以上の解析結果図3−10):釧路川温泉−千葉一心堂(標茶町市街,1170m)−標茶町泉源(同,1502.3m)−弟子屈町6号泉源(弟子屈市街,720m)−弟子屈町文化センター1号(同市街北方,1502m)を結ぶ.松波・秋田(1989)は本断面コースのうち,釧路川温泉−標茶市街間について,電気探査(7測点),標茶市街−弟子屈市街間について電気探査(1測点)および重力探査(15測点)を実施し,ボーリング坑の電気検層(比抵抗)および地質記録を補足的に活用しながら,比抵抗断面解析および重力断面解析を行っている(図3−12).断面中で取り上げた泉源の坑井地質(地質柱状図・電気検層記録)については北海道立地下資源調査所(1980),二間瀬・松波(1985),松波・秋田(1989)および松波・八幡(1989)に示されているが,これらの坑井地質判断を考慮してあらためて断面解析を行った.地層の年代については,近年,屈斜路カルデラの地熱資源調査関連で解明が進んでいる(松波・八幡,1989;八幡,1989).イクルシベ層は中部層の凝灰岩について13.1±1.1MaのFT年代が,シケレペンペツ層は基底部にFortipecten takahashiiおよびChlamys coshibensisなどの貝化石を礫岩をともなうことと,主体を成す凝灰岩について2.3±0.2MaのFT年代が報告されており(八幡,1989),シケレペンペツ層の上位のクチョロ火山灰層については,1.24±0.10Ma(FT)および1.2±1.6Ma(K−Ar)の放射年代が報告されている(宮田ほか,1988).これらのことから,イクルシベ層の上位の夕映川層はほぼ後期中新世で厚内層群に,シケレペンペツ層は鮮新世で阿寒層群に対比が可能である.標茶市街の泉源では夕映川層は泥質岩を主とし低比抵抗であるのに対して,シケレペンペツ層は総じてそれより高比抵抗である.このような両層の比抵抗特徴に注目して,電気探査結果(松波・秋田,1989)を合わせて総合解析を行うとシケレペンペツ層(阿寒層群)の下限は標茶市街からその北西部を中心にして盆状に沈んでいることが明らかになる.なお,松波・秋田(1989)の重力断面解析によれば,夕映川層の下限は標茶町泉源地点では海水準下2,650mであり,標茶市街北西10qで同3,000mに達するとされているが,これらの下限深度見積もりはかなり過大である.
W−W′断面(図3−11):浜中町霧多布−西別SK−1(2049.1m)−清乃湯温泉(西別市街,1100m)−別海ふれあい温泉(同,1201m)−尾岱沼温泉(別海町尾岱沼,1106m)−創価学会研修道場R−1号井(同,1073m)−標津健福温泉(標津町市街,1201m)−標津町金山泉源(忠類川中流,800m)を結ぶ.西別SK−1については,深度0〜8m完新世堆積物,8〜161.5m釧路層,161.5〜562.5m幾品層,562.5〜900.5m越川層,以下白亜系と報告されている(北海道鉱業振興委員会編,1968;亀谷・吉村,1964).清乃湯温泉井については,嵯峨山(1987)が知床半島基部奥蘂別川(斜里平野側)・薫別川ルートなどと対比させながら深度200〜1,000m間の岩相と珪藻化石層序を解析し,200〜220mがDenticulopsis var.fossilis帯で風連湖層(嵯峨山,1986),220〜550mがD.seminae var.fossilis−D.kamtschatica帯に相当し陸志別層上部(このうち220〜380mは貝化石を多量に含み釧路付近のFortipecten takahashii産出層−加藤ほか,1981−の珪藻化石内容に類似),550〜840mがThalassiosira oestrupii帯で陸志別層下部および幾品層(両層の境界は岩相により670m)と判定している.別海ふれあい温泉井についてはボーリング地質記録および電気検層記録(比抵抗)から判断すると,0〜97m軽石混じり火山灰質層,97〜223m礫岩・砂岩互層,223〜570m礫岩または礫岩・砂岩互層主体(細粒砂岩・泥岩をともなう),570〜755m細粒凝灰岩および凝灰岩・泥岩互層,755m以下泥岩(軽石凝灰岩をともなう)であり,223m,570mがそれぞれ風連湖と陸志別層の境界,陸志別層と幾品層の境界と見なされる.尾岱沼温泉井については,同様に0〜78.5m未固結の軽石質堆積物(軽石・軽石質砂礫層)で完新世〜中期更新世堆積物(屈斜路・摩周などのテフラ層とその再堆積物および戸春別層),78.5〜360m軽石質砂岩・泥岩互層(総じて高比抵抗,225〜295mは火山礫凝灰岩,300〜330m付近で貝化石含む)で陸志別層,360〜585m凝灰質泥岩・砂岩で幾品層下部,585〜795m凝灰岩・砂礫岩で同下部,795m以下硬質泥岩・頁岩(915m以下は細粒凝灰岩との互層)で越川層と判断される.創価学会研修道場R−1号井については,同様な処理経過から0〜107m完新世〜中期更新世堆積物,107〜818m陸志別層・幾品層,以下越川層と判定できる.標津健福温泉井については0〜10m沖積層,10〜502.5m砂岩・軽石質凝灰岩互層(基底部30m細礫岩・泥岩互層)で中〜後期更新世堆積物および陸志別層,502.5〜972.5m凝灰質砂岩・凝灰岩(ときに軽石質で一部凝灰角礫岩)で幾品層,972m以下が硬質頁岩主体で越川層と判断される.標津町金山泉源については,北海道立地下資源調査所(1980)が検層図(比抵抗・自然電位・温度)を示し,4〜70mが流紋岩質凝灰角礫岩,それ以下が安山岩質凝灰岩・凝灰角礫岩でほぼ全体が鉱化変質をこうむっているとしている.このような地質は周囲の状況から判断して,忠類層とみなされる.標津市街から北方では,地質構造的に古多糠断層と呼ばれる地層の急立帯(傾斜45°前後以上)があり,それに接近すると新第三紀層はいずれも急上昇する.以上の断面解析では越川層と幾品層の境界面をほぼ全域に追跡できるが,それは標津市街付近で最も深く海水準下970m付近に存在する.幾品層下位の越川層・忠類層は忠類川上流部で合わせて2,000m近い層厚があることから,本断面中で最も沈降する標津市街付近の地下では,上部新生界の総計の厚さは3,0000m程度と見積もることができる.一方,松波・秋田(1989)は浜中町二ツ岩付近から厚床市街−別海市街−中標津市街−開陽台を結ぶ道路沿いに重力探査を実施し,西別SK−1井などの坑井地質結果などを考慮に入れて重力断面解析を行った(図3−12).この結果では越川層の下限までの深さとして約2,500mという値を示している.後述するように,知床半島基部では硬質頁岩を主体とする越川層は各種の火山砕屑岩類(忠類層を含む)と同時異相関係にあり,そのことを考慮に入れると,松波らの越川層下限までの厚さはほぼ上部新生界の厚さとみなして差し支えがない.このように,上部新生界の厚さについては上述の断面解析などの結果と松波らの結果は近似している.
C.地質構造的特徴
根釧堆積盆では堆積物の沈降軸(最大層厚部)が北に片寄り,北の内帯側では盆地堆積物の地層傾斜(南〜南東傾斜)が増し,垂直変位が大きく,全体として南北両翼が非対称の沈降形態を示すのが特徴である.さらに,重力コンター(図3−5)より釧路川上流沿いと中標津町武佐岳南西側山麓−中標津市街付近を結ぶゾーンに北西−南東方向の構造変換部が存在し,本堆積盆は 西・中・東部の3つの単元に分かれるように判断できる.低重力の中軸が堆積盆の沈降軸だとみなすならば,各単元の沈降軸は右雁行状に配列し,その形成に右横ずれ運動が作用していたことを予想させる.白糠丘陵との境界部には北西−南東および北東−南西の2方向の断層群に規制される左雁行状の沈降・隆起帯が発達し,阿寒火山方向へ続く.さらに,これは太平洋側へ延ばすと釧路海底谷へ続く.
本堆積盆を構成する地層としては,上部中新統の厚内層群−夕映川層−越川層,鮮新統の阿寒層群−シケレペンペツ層−幾品層・陸志別層,下部更新統のクチョロ火山灰層・釧路層群−辺寒辺牛川層−風連湖層および中部更新統〜完新統の地層群が存在することが明らかになった.これらのうち,上部中新統と鮮新統の区分は全域的にかなり明瞭であるが,鮮新統と下部更新統および下部更新統と中部更新統以上の地層の区分は露頭条件や研究の遅れのため,必ずしも進んでいない.そのため,現状では第四系の厚さ(第四紀の沈降量)などを明確にとらえられないが,第四系の厚さは,それが鮮新統下限深度の半分程度とするならば,100〜500m程度とみなすことができる.