吾妻 穣(1961a):由仁平野と馬追丘陵の地下構造(その1).石油技術協会誌,26,169−179.
吾妻 穣(1961b):由仁平野と馬追丘陵の地下構造(その2).石油技術協会誌,26,339−345.
赤松守雄(1987):石狩低地帯周辺丘陵の更新世温暖水系貝化石群集の層準とその特性.地質学雑誌,93,809−821.
赤松守雄・鈴木明彦(1992):石狩低地帯周辺丘陵の鮮新−下部更新統の層序と古環境.北海道開拓記念館研究年報,20,1−29.
浅野周三研究代表(1989):地震動予測精密化のための地下深部構造の研究.文部省科学研究費自然災害特別研究成果(自然災害科学総合研究班),163p
浅野周三・嶋 悦三・松田時彦・吉井敏尅・岡田 広・斉藤正徳・小林啓美・入倉孝次郎・鳥羽武文・朝倉夏雄(1986):バイブロサイス反射法による地殻構造調査.物理探査学会昭和61年秋季講演会講演要旨集,73−74.
北海道農業土木協会編(1990):平成2年度空知地区南部耕地出張所管内ボーリング資料報告書.140p.
北海道農業土木協会編(1992):平成3年度石狩支庁管内ボーリング資料報告書.140p.
石田正夫・曾屋龍典・須田芳郎(1980):20万分の1地質図「札幌」.地質調査所.
活断層研究会編(1991):新編,日本の活断層−分布図と資料−.東京大学出版会,437p.
経済企画庁(1974):5万分の1土地分類基本調査「恵庭」および同説明書.49p.
近藤 務・五十嵐八枝子(1987):北海道馬追丘陵北部のボーリング孔にみられる第四系.松井愈教授記念論文集,95−103.
日下 哉・岩見沢団研グループ(1996):馬追丘陵南部,コムカラ峠の活衝上断層.日本地質学会北海道支部1996年例会個人講演要旨集.
栗田祐司・秋葉文雄・横井 悟・小布施明子・一ノ関鉄郎・吾妻高志(1977):北海道石狩平野南部〜夕張・日高地域の漸新統〜下部中新統層序と年代並びに上部漸新統南長沼層の提唱.日本地質学会第104年学術大会講演要旨集,p.117.
松野久也・秦 光男(1960):5万分の1地質図幅「追分」および同説明書.北海道開発庁40p.
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長尾捨一・小山内煕・石山昭三(1959):5万分の1地質図幅「恵庭」および同説明書.北海道開発庁,31p.
西田 茂・羽坂俊一・小林幸雄(1996):北海道馬追丘陵キウス7遺跡で見つかった断層.地質ニュース,498,40−42.
岡 孝雄(1998):国営農地再編整備事業計画地区,千歳地区表層地質調査報告書.北海道開発局農業水産部・北海道立地下資源調査所,121p.
佐々保雄・田中啓策・秦 光男(1964):5万分の1地質図幅「夕張」および同説明書.北海道開発庁.184p.
石油公団(1997):平成8年度基礎試錐「馬追」地質検討会資料.61p.
石油資源開発株式会社物理探鉱部(1971):広島−長沼地震探鉱調査報告書(北海道発注).
下川浩一・佃 栄吉・奥村晃史(1993):北海道馬追丘陵の後期更新世の地殻変動とその速度について.日本地質学会第100年学術大会講演要旨集,p.504.
曾屋龍典・佐藤博之(1980):千歳地域の地質.地域地質研究報告(5万分の1図幅),地質調査所,92p.
佃 栄吉・下川浩一・杉山雄一・横倉隆伸・阿蘇弘生(1993):北海道馬追丘陵下のブラインドスラストの評価.日本地質学会第100年学術大会講演要旨集,p.505.
山田悟郎(1984):馬追丘陵西翼部に分布する後期更新世堆積物の花粉化石について.北海道開拓記念館研究年報,12,35−46.
[文献調査の結果]
@物理探査関係資料
本地域の南半部では図3−1−2−1に示すように石油資源関係などでの多くの地震探査およびボーリング調査が行われている.それらの概要は以下のとおりである.
馬追丘陵は雁行状に配列したいくつかの構造単元より構成されているが,本地域にはそのうち中部南および中部北(馬追背斜)の構造単元が関係している.本地域の地質構造については古くは吾妻(1961a;b)により昭和30年代前半に行われた石油資源探査(地震探査・試錐・地表地質調査)の結果に基づいて解析され,スラストを基本とした西急東緩の褶曲構造を成すことが明らかにされた.その後も,各種の石油資源探査が続けられたが(石油資源開発株式会社物理探鉱部,1971;図3−1−2−4,図3−1−2−5),近年になり直下型地震の発生と地震動予測の立場からも物理探査(バイブロサイス法および浅層反射法による地震探査),地表調査(地形・地質)およびボーリング調査が行われ(浅野周三研究代表,1989;佃ほか,1993;下川ほか,1993),馬追丘陵の西縁沿いに逆断層(スラスト)が存在し、その断層を境にして,新生代の地層は西側でほぼ水平であるが東側では急傾斜(西へ)していること,その断層は第四系も変位させていることが明らかになった(図3−1−2−6).最近では基礎試錐「長沼」と関連の物理探査が行われ(石油公団,1977),正断層群を基本とする古第三系および白亜系の地塁(ホルスト)構造の上位に,スラストを境にして新第三系を主体とする複背斜構造が重なる二階建構造の詳細が解明された(図3−1−2−2,図3−1−2−3).さらに,背斜構造(馬追山背斜)中軸部に古第三系上部漸新統“南長沼層”が存在することが明らかにされた(石油公団,1997;栗田ほか,1997).
A千歳地区表層地質調査報告書(岡,1998)
最近になり,岡(1998)は北海道開発局農業水産部よりの委託により千歳市東部の表層地質調査を実施し,本地域の南半部には南長沼断層,泉郷断層,協和断層および嶮淵川−シーケヌフチ川構造谷の構造要素が存在することを明らかにした(図3−1−2−7).
南長沼断層は嶮淵川沿いに道横断自動車道との交点付近から泉郷東方を通り,長沼町幌内神社付近を通りハイジ牧場の西方に延び,少なくとも10kmあまりの長さがある.地質断層としては南長沼層と滝の上層(前期中新世後期〜中期中新世)が接したスラスト性のものである.泉郷付近から幌内にかけては中位段丘(東千歳層)を顕著に変位させたようなリニアメントとして追跡できるが,このリニアメントが活断層であるかどうかは,後述するようにこのリニアメントをはさんで両側に分布するとした第四系(東千歳層)が同時期のものであるかどうかにかかっている.幌内神社下の沢ではほぼ南北走向・直立〜東傾斜(50−90°)のシェア面・断層帯(幅50mあまり,南長沼層)として認められている.ただし,この断層の西側に接する地層はハイジ牧場西方の地質状況から判断して,追分層と推定される.なお,佃ほか(1993)は浅層反射法地震探査により馬追丘陵西縁に“石狩低地帯東縁断層”の存在を認め(図3−1−2−6),伏在する活断層(ブラインドスラスト)としているが,この断層は南長沼断層の北方延長の可能性がある(岡,1998では平行に走る別の断層と考えた).
泉郷断層は泉郷の信田温泉温泉北方からコムカラ峠を通り自衛隊東千歳駐屯地内に延び,9km程の長さがある馬追丘陵中軸を中心としたスラスト性の上昇運動(東上がり西落ち)に逆らうように,東落ちの逆断層(バックスラスト;活断層)で顕著なリニアメントとして追跡できる.地質断層としては追分層内に追跡でき,層理にほぼ平行した断層で,地震探査の解析断面の中では地下深部においても,同様な断層であると解釈されている(図3−1−2−3).
嶮淵川−シーケヌフチ川構造谷は南長沼断層と泉郷断層の間の部分が地溝状に落ち込むことから設定されたもので,一種の活構造地形とみなされている.
B北海道横断自動車道路工事関連の資料・報告
北海道横断自動車道路の工事関連では前段調査として,千歳市長都付近から馬追丘陵を横断して追分市街付近まで計95孔のボーリング調査が行われた.その柱状図は千歳地区表層地質調査報告の取りまとめの際に日本道路公団千歳工事事務所より提供があった(図3−1−2−8、図3−1−2−9、図3−1−2−10、図3−1−2−11、図3−1−2−12に本調査に関連のあるものを示す,各孔の位置は図3−1−2−7参照).
さらに,泉郷断層が通過するとされるコムカラ峠の工事現場では,1万数千年前に降灰した恵庭a火山灰を1〜2m1切る活断層露頭が現れ,その観察結果は日下ほか(1996)で報告された.その後,峠でのトレンチ状の工事は次第に深さを増し,30m程度に達した段階の様子については岡(1998)が報告している.すなわち,この段階で西に顕著に傾く追分層とそれをほぼ水平におおう第四系の間は明らかな斜交不整合関係であり,活断層により,この不整合面は約20m切られていること(東落ち逆断層で追分層内では層理にほぼ平行)が分かった.この活断層こそまさしく泉郷断層であった(図3−1−2−14および図3−1−2−15の写真参照)