(3)トレンチ調査の結果

ボーリング調査およびS波反射法弾性波探査の再解析結果から、福井東側地震断層がS−1孔とS−2孔の間に存在すると考えられる。よって、図2−12(前掲)に示す丸岡町八ヶ郷のS波測線の南側に位置する水田においてトレンチ掘削を行った。同箇所をトレンチ掘削位置として選定した主な理由は、以下の通りである。

・ 文献で記載された福井東側地震断層(篠岡断層)の通過位置である。

・ 味岡山と、その南方に位置する丸岡高校の載る丘陵の西側境界を結ぶ線上であり、この南延長は東へ逆向き傾斜を示す小黒集落を載せる丘陵前面のリニアメントに連続する。

・ S波測線に沿って実施した地形測量の結果、地形の急傾斜が認められる。

・ S波反射断面から推定されたf−1の地表延長に位置する。

・ S波側線沿いに設定したボ−リング調査の結果から、基盤岩の深度および各地層の層厚・層相の連続の変化が示唆された地点に相当する。

トレンチ掘削は、想定される断層(方向N20E程度)に直交する方向で実施した。トレンチの口元寸法は長さ約10m、幅約5m 深さ約3〜4mである。

トレンチの北と南の2壁面で地質観察を行った。トレンチ壁面の写真を写真2−1写真2−2に、地層観察スケッチを図2−16図2−17に示す。

また、トレンチ壁面からは、14C資料を採取し、年代測定を実施したほか、土器片、陶片、漆器片等の考古学的遺物が出土したことから、それらの鑑定を実施し、地質年代の検討を行った。14C年代測定結果のデータシートを巻末に付す。なお、遺物の鑑定については、福井県埋蔵文化財センターに依頼して実施した。

@ トレンチによる地層の層序

トレンチ壁面で観察された地層は、上位より、耕作土および盛土、シルト(A1層)、シルト質砂(A2層)、腐植質シルト〜粘土(B層)、砂礫(C層)からなる。A2層とその上位のA1層との境界は明瞭に識別できない。これらはいずれも、S波反射法弾性波探査測線沿いで実施したボーリングのうち、S−1孔およびS−2孔で確認されたT−1層を構成する地層に相当する。

耕作土および盛土

耕作土は現在の耕作土で、青灰色の礫混じりシルトからなる。下部に安山岩質の径40mmの礫を含み、層厚は約30cmである。

盛土はシルト質砂礫〜礫からなる。淘汰は悪い。礫は未風化の安山岩からなり、最大礫径は10数cmである。

シルト(A1層)

本層と下位のシルト質砂〜礫混じり砂(C層)は漸移し、その境界の一部は不明瞭である。全体に青灰色〜灰色あるいは淡オリ−ブ色を示す。腐植物あるいは炭化木片、炭が不規則に点在する。層厚は約1.5mである。

シルト質砂〜礫混じり砂(A2層)

シルト質砂〜細砂が主体で、上部から下部へより砂質となり、最下部では粗粒砂に変化する。本層には数〜10cmの径の円〜亜円礫が点在し、厚さ10cm程度の砂礫をレンズ状に挟む。本層の基底面は、後述する噴礫が溢れ出した旧地表面と判断される。

腐植質シルト〜粘土(B層)

腐植質な部分を挟在するシルト〜粘土で、灰色(腐植質の部分は褐色〜暗褐色)を呈する。層厚は約1mである。

上部は比較的均質なシルト〜粘土で、指で変形しない程度に堅い。数mmの亜円礫や腐植物が点在する。

中部は腐植土〜腐植質シルト(層厚約30cm)で、径数mm程度の亜円礫が点在する。

下部はやや砂質で、下位の砂礫(C層)との境界は不明瞭である。また、下位の礫が立った形状で混入する。

砂礫(C層)

灰〜オリーブ色を示す。礫率は40〜50%で、径4〜10cmの亜円〜亜角礫主体である。最大径は16cm、礫種は安山岩が主体で、凝灰岩を交える。基質は粗砂〜細砂で、灰色中粒砂が主体である。

本層は、トレンチ中央付近で腐植質シルト〜粘土(D層)を突き破り、上位のシルト質砂〜礫混じり砂(C層)と繋がる噴礫を示す。

なお、トレンチ埋め戻しの際、さらに北側を掘削したところ、層厚約1.3mの砂礫(C層)の下位に礫混じり砂を確認した。これは前述のボ−リング調査と整合する。

トレンチにおいて確認された層序を表2−6にまとめる。

A 地層の連続性と断層の有無

トレンチの壁面においては、断層面および断層運動に起因する地層の変位・変形は確認されなかった。

B 噴礫について

トレンチの中央付近(西端から3~4m)で、C層の砂礫が上位のB層を貫き、B層の上面で横に広がっている様子が認められた。この構造は、その産状から、強い揺れにより液状化した砂礫が上位の地層を貫き、旧地表面に噴出した痕跡(噴礫)であると考えられる。噴礫がB層を貫く部分の幅は約0.6m(見かけ約1.4m)である。また、その方向はおよそN20°Eであり、福井東側地震断層の走向(N10°W)と斜交する。

噴礫の粒度組成

噴礫部分は、やや淘汰のよい砂礫で、礫率は70~80%程度である。噴礫の最大径は15cm程度である。基質や礫径は噴礫中部のシルトの薄層(北側壁面で明瞭)を境に、下位はほぼC層の砂礫と同じであるが、上位で基質はシルト質細砂となり、旧地表面に噴出した部分は細礫混じり粗粒砂〜中粒砂となる。

南北壁面の噴礫部分から採取した試料について粒度分析を行い、日本港湾協会(1989)による液状化の可能性のある土の粒土と比較した。粒度分析試料採取位置を図2−18図2−19に示す。比較の結果、採取されたデータは、通常液状化しやすいと考えられている範囲から大きく外れていた(図2−20)。粒度分析の結果を巻末に付す。これは、通常では考えにくい状況の下で噴礫が発生したと考えることができ、強い揺れ等の大きな外力が働いたことが示唆される。

地質年代測定

噴礫の形成年代を明らかにするために、14C年代測定および考古学的遺物による年代検討を行った。14C年代試料採取位置を図2−18に示し、年代測定結果を表2−7に示す。また、トレンチ壁面における考古学的遺物の出土位置および鑑定結果を図2−21図2−22および表2−8に示す。

14C年代測定の結果、噴礫に切られるB層の腐植質シルト〜粘土の最上部で採取した試料(No.2)からは、760±50y.B.P.(暦年約1,200年前後)の年代が得られた。また、旧地表面に流れ出したA2層最下部に相当する噴礫の直上で採取した試料(No.5、No.4)からは510±80y.B.P.、820±80y.B.P.(各々暦年約1,440年前後、1,130年前後)の年代が、旧地表面に噴出した噴礫中に混入した材(No.1)からは620±50y.B.P. (暦年1,330年前後)の年代が得られた。すなわち、14C年代測定の結果からは、噴礫の発生時期は、暦年約1,200年頃以降で、約1,440年頃以前の可能性が高い。

トレンチ壁面から出土した考古学的遺物の鑑定の結果、噴礫直下のB層の粘土から出土したカワラケ片がほぼ13世紀代(前半?)に収まり、噴礫直上のA2層下部で出土した越前焼きが13〜15世紀に収まることから、噴礫の発生は13世紀後半から15世紀頃である可能性が示唆され、14C年代測定結果とほぼ一致する結果が得られた。

なお、出土した遺物の大半が摩耗し、原位置を保っていない可能性が高いことから、遺物を含む地層の年代を確定する根拠に乏しいが、B層下部の腐植土は弥生〜古墳時代、B層上部のシルト〜粘土は古代〜中世、噴礫を覆うA2層は近世以降の可能性が示唆される。