北陸農政局計画部(1977)は、福井県(1965)およびその他のさく井資料をもとに、谷地形を伴う第1礫層の上面を沖積層と洪積層の境界と仮定して福井平野の地下地質断面図を作成し、調査対象地域の地下に分布する沖積統および洪積統が平野の東側から西側へ緩く傾斜していることを示した。しかし、これらの地下構造の推定に際しては、平野内に分布が示されている福井地震断層および福井東側地震断層による変動は考慮しておらず、また、断面図からもこれらの構造に起因する明らかな変位は読みとれない。なお、沖積統下面に認められる谷地形は洪積統の2枚の礫層の下面にも認められ、その谷部の位置はほぼ一致しているほか、基盤をなす第三紀層の上面形態はかなり起伏に富んでいるとされる。沖積統の層厚は、海岸部において最大60m、洪積統は平野中心部で100m以上とされる。
三浦(1992)は、これらのボーリングデータをもとに福井平野の地下の断面図を作成し、完新世の扇状地礫層が水平に堆積する完新世の粘土層に埋没すること、更新世の礫層は3層準認められ、礫層に挟在される粘土層は供給側(東側)に向かって薄くなり、更新統は全体として平野の中央部で沈むようにたわんでいることを提示している。しかし、福井地震断層および福井東側地震断層を含めた活構造を考慮した評価は行っていない(図3−1−4)。沖積層の基底は三里浜の砂丘の地下で最も深く、現海面下約55m程度であるとされる(図3−1−5)。また、更新統の下底は福井平野北部で深く、250〜300m程度とされる。
岡本ほか(1989)は、福井地震断層分布推定位置近傍においてオールコアのサンプルを行い、北陸農政局計画部(1977)の結果と併せて推定された断層の変位の評価を行った。その結果、各ボーリング孔の間に明瞭な不連続は認められていない。しかし、ボーリングデータから得られた沖積層内に含まれる火山灰(アカホヤ)の分布標高および沖積層下面高度からは、深度が深くなるにつれて東部と西部とで高度のギャップが増大する傾向が認められ、それを基盤岩における断層運動の繰り返しの結果であるとしている(図3−1−6)。また、福井地震における地表付近の上下の変位量が70cmであったことを考慮し、これらの高度のギャップと地質年代とから断層運動に伴う地震の繰り返し間隔の推定を行った結果、福井地震断層の活動間隔は3000年前後であるとしている。
天池・竹内(1989)は、福井地震断層のほぼ中央部に位置する田島川を挟む測線において弾性波探査を実施し、福井地震の際に地割れを生じた場所に一致する地点の地下の基盤構造において、1948年の福井地震およびそれに先行する地震によって上下変位が蓄積された結果と判断できる段差(約200m)を認めているほか、表層構造についても、沖積層の各層が測線の東端部に比べて西側で2〜3m深くなっていること等を指摘し、田島川の下には繰り返し地震を発生させた活断層が存在するとしている(図3−1−7)。また、中部から近畿地方の最近の地殻変動が100万年前あるいは50万年前から始まったと仮定し、田島川を挟む1〜2kmの幅の中での基盤のくい違い(約200m)と一度の地震によるおよその上下変位(1m)から得た地震回数を用いて福井地震のおよその再来周期を検討した結果、それは5,000〜2,500年であるとしている。
以上の文献による記載を参考にし、福井県地震対策基礎調査(自然災害想定調査、1986)の調査ボーリング柱状図集のデータをもとに福井平野の地下地質構造について検討を行った(図3−1−8−1、図3−1−8−2)。これらのデータについては、その具体的な内容が明らかでないことから、詳細な検討は不可能であるが、更新統が全体的に東から西へと緩く傾く傾向を把握することは可能である。しかし、断層の分布が示唆されている場所近傍において、これらの構造に起因する明らかな変位を読みとることはできない。