(1)これまでの見解

岡田(1972)は,

『 相之谷から丹原町湯谷口までの区間では,川上断層は狭義の中央構造線と一致するとみなされる。この付近では和泉層群と三波川結晶片岩との直接の接触状態を観察していない。断層破砕帯や断層の一部,さらに岩体の露出状態から,断層線はFig.4のように求められたが,これから判読すると断層面は北西へ数10°で傾斜していることになる。

この区間では中央構造線に沿って,北西側から相対的にのし上がる衝上断層状の運動が起こっていると考えられるが,断層を境として河床縦断形にはあまり差が認められない。断層線に沿って,ほとんどの河谷が右ずれ状の彎曲をするので,低角度の断層でも右ずれが卓越しているらしい。』

と述べている(図4−3−14)。

また,岡田(1972)は,そのテクトニックを次のように説明している(図4−3−14)。

『 活断層としての川上断層もここで大きく彎曲する。川上断層の存在とその彎曲は新しい応力場のもとで既存の屈曲した中央構造線(の深部の剪断面)に規制されて,一部では新しい破断面を,一部では古い断層面を利用して形成された。この付近での最大圧縮軸は屈曲部の川上断層の走向とはほぼ直交することになるから,純粋な逆断層型の運動が期待されるのであるが,以西の伊予断層や川上断層西半部での右ずれ運動の影響を受け,右ずれの卓越した逆断層となっているようである。高縄山地側では西方から移動してきた物質が屈曲部で詰まるような状態となり,高縄山地の曲隆がもたらされたと考えられる。』

さらに,岡田(1992)は,川上断層のセグメントを次のように認定している(図4−3−3)。

『 高縄山地と四国山地が接する桜樹屈曲部の中央部では,主境界断層としての中央構造線が活断層であり,この断層線の平面形は大きく湾曲している。これは高縄半島部が隆起している地形状況から,逆断層成分が大きいと見られる。この西南方の和泉層群中へ直線状に延びる川上断層があり,これに連続するので,一連の断層として認定される(岡田,1972)。

屈曲部の南西では走向はN60°E方向で,さらに西端部ではN75°E方向になるが,桜樹屈曲部の中央から北東部では南北から北東方向となり,ここに横“し”の字状構造が認められるので,1つのセグメント(Za)として認定した。その右ずれ平均変位速度は段丘面の年代が判明していないので詳細は不明であるが,地形面のおおまかな対比や年代推定によれば,四国中〜東部にかけての値に比べてかなり小さく,数分の1程度以下とみなされる。』

Tsutsumi & Okada(1996)も,川上断層について岡田(1972,1992)と同じ立場をとり,川上断層延長23kmと認定している(図4−3−3)。

これに対して,四国電力(1984)は,

『 相之谷〜臼坂の間は中央構造線の桜樹屈曲に一致すると考えられるが,リニアメントおよび変位地形は認められず,中央構造線に沿って貫入したデイサイトもほとんど破砕されていないため,第四紀後期の活動の可能性は極めて低い。

川上・北方断層の新期の活動は,北方〜相之谷および臼坂〜湯谷口の個々の区間で生じたと考えられ,その延長は各々10kmおよび7kmである。

また,相之谷〜臼坂の区間は第四紀後期の活動の可能性は極めて低いと考えられるものの,仮に相之谷〜臼坂の区間が,北方〜相之谷の区間および臼坂〜湯谷口の区間と同時に活動した時期を第四紀後期にまで及んでいたものとした場合でもその延長は19kmである。』

と報告している。

一方,高橋(1986)は,桜樹屈曲の形成時期およびその成因を考察し,次のように述べている(図4−3−15)。

『 中央構造線が屈曲する狩場〜湯谷口間においては,表川河床などで観察されるように,断層西側に分布する和泉層群が東側の久万層群明神層や三波川結晶片岩類上に衝上し,この衝上断層に沿って石鎚層群の黒雲母安山岩が貫入している。したがって,屈曲を示す南北走向の断層の形成された時期は,明神層堆積後,黒雲母安山岩貫入前と推定される。これは,中央構造線の砥部時階の活動時期に相当している。

中央構造線は鹿塩時階の活動により形成されて以降,少なくとも3回活動している。鹿塩時階につづく市之川時階の活動は,和泉層群の堆積盆形成と堆積に関わる左横ずれを伴う内帯側落としの正断層であり,その垂直変位量は5,000m以上と考えられる。この活動に際しては,桜樹屈曲のような断層の屈曲部が存在するとは考えられず,三波川結晶片岩類と和泉層群とは直線的な断層で接していたと推測される。(中略)

直線的な一条の断層が屈曲するためには,断層そのものが曲げられるか,あるいは,別の直交する断層によって切られて転位し,屈曲を呈するようになるかの2通りの可能性が考えられる。

断層が曲げられて屈曲したとする見解(永井,1958;岡田,1972)をとると,その断層の両側に分布する地質帯の構造にも屈曲による影響が残っているはずである。しかし,問題の桜樹屈曲近傍の和泉層群や三波川結晶片岩類の地質構造には,屈曲を示すものは何ら観察されない。

したがって残された可能性は,別の断層によって転位させられ,屈曲を示すようになったとするものである。(中略)

桜樹屈曲は砥部時階の産物として丹原断層以西の地質体が南に張り出すことによって形成されたものと考えられる。その水平移動量は,和泉層群の南への張り出しから判断して7〜8kmと推定される。(中略)

筆者は,図21のように,和泉層群下に伏在していた断層のあるものが再活動して,断層の西側が南に転位したために桜樹屈曲が形成されたと考える。その形成時期は,砥部時階中とするのが妥当である。(中略)

桜樹屈曲以西においては,石鎚層群堆積以後,中央構造線や花山衝上は再活動していない。』

また,高橋(1997)は,川上断層が桜樹屈曲を越えて湯谷口まで延長されるかどうかについて今後検討する必要があると指摘している。

地質調査所(1993)は,川上断層の相之谷〜臼坂間,地質境界の中央構造線と一致させて図示している(図4−3−16)。

また,国土地理院(1998)は,相之谷〜臼坂間の川上断層の位置を不確かな波線で表示している(図4−3−17)。

中田・奥村・後藤・高田・岡田・堤(1998)が提案したセグメント区分では,桜樹屈曲部にセグメント境界を設定している。

鹿島(1999)は,桜樹屈曲以西の川上断層と桜樹屈曲以東の活断層とを区別している。